HEXCITE小説



相合い傘パズル 1996.10 我人・作

1 冷や汗
2 脂汗
3 失業
4 誘惑
5 思考
6 失意
7 ひらめき
8 不意の知らせ
9 責任
10 言葉
11 判決
12 相合い傘


☆冷や汗

「話にならん! もう辞めろ!」
「あ、いや、すみません。今後気をつけますから、お願いします」
「…………」
「社長! がんばりますから、許してください」
「ダメダメ、やっぱり辞めてもらうよ」
「そ、そんな、ほんとに死ぬ気でやりますから、そんなこと言わな……」
「今日までの給料は日割りで出すから。さあ、もう帰って、こんど給料日に来てくれ」
「お願いします、社長。もう一度だけやらせてください、お願いします」
 渡瀬は涙ぐんで哀願する。しかし、みるみるうちに社長は鬼の形相に変わっていく。
「もう一度って、なんべん聞いたと思ってるんだ! さあ、とっとと帰れ!」
 社長の西岡はそう叫ぶと、今にも襲いかかり食い殺さんばかりに睨みつける。
 渡瀬はめまいを起こしてその場にうずくまってしまった。気配を感じてふと見上げると、いつ手にしたのか金剛棒らしきものを振り下ろそうと西岡が身構えている。
「お、おまえのせいで会社も俺もボロボロだ! ばかやろう!」
 すっかり鬼に変身した西岡の金剛棒が、スローモーションで渡瀬の頭上へ落下してくる。
(死ぬ……? 助け……誰か!)
 喉元で声がつかえて出てこない。必死で逃れようと身をよじった瞬間、衝撃が脳天をつらぬいた。
(痛ッ! やられた! ……ん? 意識は…まだある? 血は?)
 まぶたを薄く開いて押さえていた手を見る。血の跡はない。倒れたままふと頭上にラジカセが見えた。
(社長室にこんなものが? これ僕のものと同じ……)
 ハッと渡瀬は我に返った。天井には見慣れた蛍光灯がぶらさがっている。自宅アパートの狭い部屋である。
「なんだよ、夢かよお」
  薄っぺらな掛け布団を思い切り蹴飛ばし、両手両足を大の字に広げた。先日、社長にこっぴどく叱られたのが尾を引いていたのだろう。それにしても、と渡瀬は思い出す。
(恐ろしい形相だったなあ。くそっ、脅かしやがって)
 胸騒ぎがして時計に目を移す。
「しまったあ! 遅刻だ!」
 傍らに脱ぎ捨ててある服を乱暴に取り上げ、ボタンもかけずに部屋を飛び出した。

「おはようございまーす」
 マンションの一室を借りた事務所は、玄関で一声あげれば全員に聞こえるほどの広さである。五十uほどの2LDKの間取りだ。小さな声で渡瀬はあいさつするとそうっとドアを閉めた。
「おーす、遅いぞー」
「おはよう」
 社員の仕事場である手前の部屋では、上司の牛溝と歳はひとつ下だが先輩である女子社員の武宮が席についていた。社員は渡瀬を加えてこの三人しかいない。
 渡瀬は自分の席にバッグを置くと、パソコンの電源を入れてから部屋を出た。
 奥のリビングは応接セットと観葉植物の鉢があるだけで、狭いわりには広々と感じられる。
 隣に面している六畳間の部屋が社長室である。もともとはふすまで仕切られていたのだが、パーテーションに変えてドアをしつらえた。ドア越しにいつものように挨拶した。
「社長、おはようございます」
 閉じられたドアの奥は静まりかえったままだ。今朝がたの悪夢がちらつく。
「あのう、遅れてもうしわけありません。今日も残業させてください……」
 いつもならここで怒鳴り声が飛んでくるところだが、何の応答もない。不安が足元からじわじわと染み込んでくる。睨むようにドアを見つめながら、そのままかたまってしまった。
 いきなり、ポンッと肩をたたかれた。ビクッと身体が反応して振り向くと牛溝が立っていた。ニヤリと口元をゆるめながら、
「わたせー」
 と、意味ありげに語尾を伸ばす。渡瀬の肩に置いた手を揉むように動かしながら、息が耳に吹きかかるほど近くで牛溝はささやいた。
「社長はかなりごきげん斜めだぜ」
 息がくさい。ガラムとかいうタバコを愛煙しているせいだ。いや、臭いなど今はどうでもいい。
 ひょっとしたら留守なのでは、という期待は虚しかったのか。(まいったなあ)と渡瀬は胸の奥で溜息をつく。つづいて頭の中でビデオ再生が始まり、鮮明な映像が映し出されていく。
(あの悪夢が、まさか正夢になる? そんなあ)
 そんなことはあるまいと思いながらも、まるで鉛でも飲み込んだような重みが胃を収縮させた。
「ぼくのことで……ですか?」
「さあ、どうだか」
 われ関せずという顔で、牛溝は小型冷蔵庫の中から缶ジュースを取り出した。仕事に厳しいわりには思いやりのある上司だが、こういうときの牛溝はけっこう冷たい。
 とにかくきちんと謝りたい。喉をゴクッと鳴らしドアをノックしかけたとき、電話が鳴り響いた。会社への電話はほとんどが社長宛である。用件が済むまで待たなくてはならない。
 電話の取り次ぎは武宮の役割である。内線仕様の電話機ではないので、保留にしたまま社長室のドア越しに相手の名を告げるのがいつものやり方だ。
 外線電話を保留にして、武宮はリビングに入ってきた。
「牛溝さん、社長が直接NEKOに行かれるそうですよ」
「あ、そう。じゃ、そろそろ俺も支度しようかな」
 ふたりの会話を聞いて、渡瀬はキョトンとする。
「よかったわねー、渡瀬くん。社長がいなくて」
 渡瀬が振り返ると牛溝は吹き出した。
「あははは、悪い悪い、ジョークだよ」
 ブラックジョークを身上にしているとはいえ、タチの悪い冗談はやめてほしい。仕事の 面でいつもフォローしてくれる尊敬すべき上司なのだが、今回はさすがにムカついた。
「今朝、会社を辞めさせられる夢を見たんで、マジでビビッてたのに」
「自分の仕事に自信がないということかい?」
 缶ジュースを一気に飲み干すと、こんどは正論で攻めてきた。渡瀬はそれ以上なにも言えなくなってしまった。
「さーてと、お昼は何を食べようかな?」
 武宮は武宮で、渡瀬のことより自分の腹具合の方が大事といった口ぶりである。
 牛溝は、はたと何かを気づいたように書類のコピーを彼女に頼み、リビングを出た。
 武宮は仕事部屋に戻ろうと歩き出したところで、振り向きざまに声をひそめて言う。
「今日はナーバスなのよ、牛溝さん。ほら、例のプレゼンだから」
 渡瀬は緊張で握りしめていた拳を緩めると、手の平にキラキラと汗が光っていた。だまされた悔しさもさることながら、とりあえず悪夢の再現をまぬがれたことに安堵した。システムキッチンのシンクで手を洗い、ついで二度三度冷たい水を顔に浴びせた。


☆脂汗

 社長の西岡と牛溝はJR田町駅で落ちあった。
 歩いて十分ほどの東邦国際ビル内にクライアントのNEKOが事務所を構えている。これが三度目の訪問で、今回は懸案の企画の最終案を出すことになっていた。
 NEKOは大手家電メーカーの子会社で、ソフトウェアの開発・販売を業務としている。主にパソコンソフトであるが、一部コンシューマ向けのゲームソフトにも手を広げたらしい。ソフトの分野はさまざまで、企業向け管理ソフトやCADといったものから、教育、ゲ ームなど全般にわたる。設立して二年という若さもあり、いまだ業界内では下位に甘んじている。
 受付で担当の蓬田を呼び出す。とりあえず会議室に案内され、五分ほど待つ。
 蓬田が頭をかきながら現れた。いつものようにノーネクタイだ。
「いや、どうもお待たせして。いろいろとありましてねー」
 そう言いながら厚い書類をドサッと机に置き、深々と椅子の背にもたれかかる。
 姿勢をただして西岡がお愛想の挨拶をする。
「いつもお忙しい中、時間を割いていただきもうしわけありません」
「いえいえ、お願いしているのはこちらですから」
 ひととおり社交辞令を済ませ商談に入る。牛溝は用意してきた教育ソフト企画最終案を蓬田に手渡した。
 西岡が本題の口火を切る。
「基本的な部分は前回と変わりありませんが、前回ご指摘のあった分岐システムと画面構成について新たにご提案させていただきます」
 西岡はそう言うと、牛溝に目で合図した。
 打ち合わせどおり、牛溝は文面に沿ってプレゼンテーションをしていく。過去二回の反応で、ほぼ蓬田の注文は理解できていた。
 牛溝はゲームソフトを今まで手がけてきたおかげで、蓬田の言うゲームライクなつくりの部分については自信をもっていた。
 蓬田はフンフンとうなずきながら黙って耳をかたむけている。
 ひととおり説明を終え、西岡と牛溝は蓬田の反応を待った。蓬田がこちらの話を何も言わずに聞いていたのは初めてのことだった。
 前回までは話の途中で何度も注文をつけられた。今回の企画は、当初、渡瀬にがんばってもらった。が、やはり新人であり、なにより経験不足がもろに表れていた。二度めの企画案は牛溝がかなり手を加えた。そして最終案は更にいくつか独自のアイデアを加えて完成させた。自分なりに満足のいくものになったと牛溝は思っている。
 蓬田は企画書から目を離し、顔を上げる。口元に笑みをたたえ、西岡と牛溝をゆっくり交互に見つめた。牛溝は内心<やった>と思った。その瞬間、蓬田が口を開いた。
「企画自体はこれで完璧のようですね」
 西岡がすかさず笑顔を返す。
「ありがとうございます。いやあ、蓬田課長のおかげで牛溝もいい勉強になり…」
「あ、いや、ちょっと待ってください、西岡さん」
 蓬田が手を前にかざして西岡の言葉のつづきを制した。
「これはこれで完璧なんですが……ご存じありませんか? 富士総の『ファミリー算数CD』シリーズ」
 西岡が牛溝を見る。答えろという目だ。
「ええ、たいていのソフトは見ましたが」
 すべてと答えたかったが、渡瀬や武宮にまかせている部分もあり、あいまいな返事になってしまった。
「最新のはご覧になりました?」
「あ、いや、いつ発売のものですか?」
「十日ほど前ですかねえ、出たのは。それとほぼ同じシステムなんですよ」
 牛溝の眼差しから焦点が消えた。蓬田はそんな牛溝の狼狽ぶりを察して、蓬田の目を惹きつけるように話をつづけた。
「いえ、こちらからも確認の連絡をと思ったんですがね、一応チェックはされていると思って、つい伝えそびれてしまいまして……」
 呆然としている牛溝の足を机の下で蹴りながら、西岡が対応した。
「そうですか、さっそく調べてもう一度練り直してきます。いえ、三日もあれば再提案できると思いますので。富士総さんのより絶対にいいものにしてみせますよ」
 早口でそう言うと、西岡は次回の日時を決めようとシステム手帳のカレンダーをいそがしくめくり始める。蓬田はそれを察知して、すばやく話しかける。
「西岡さん、今回の仕事はたいしたものではないし、何度も足を運んでいただくのもなんですから、別の企画を提案してもらえませんか?」
 蓬田は相変わらず笑みを浮かべていたが、目はどんよりとして冷ややかだった。
 西岡は再度くいさがるが、蓬田は背後の窓いっぱいに広がる東京タワーに目を向け、ただうなるばかりだった。
 東邦国際ビルを出ると、西岡は用事があるからとタクシーを拾い牛溝ひとり残して行ってしまった。牛溝はすでに空半分を覆っている黒い雲を一瞥してから、駅に向かいとぼとぼと歩き出した。

事務所に戻ると武宮が期待を込めた笑顔で出迎えた。
「お疲れさまでした。で、どうでした?」
 目を輝かせて牛溝を見る。出がけの牛溝の確信めいたことばから、武宮はいい返事だけを想定していたのだ。
「ん? うん、詳しいことは社長からね」
 牛溝は上着を脱ぎながら机に向かう。
「またー、もったいぶってー。ま、いいか、大事なことは社長さまからですよね」
 勝手に思いこみをする癖が武宮にはある。いつもはそんな武宮に注意をうながすのだが、牛溝はだまっていた。その牛溝の後ろ姿を見ていた武宮が言った。
「あれ? 雨が降ってきちゃいました?」
「ん? いや曇ってはいたけどね。降られなかったよ」
「そうですよね、ジャケットは濡れてないみたいだし……」
  渡瀬はヘッドホンをかけパソコン画面に目をはりつけたまま、牛溝が戻ったことも気づかないでいる。牛溝は渡瀬の背後をすりぬけざまに、平手で頭をこづいた。渡瀬はハッとしてあいさつした。
 渡瀬が原案をつくったにせよ、自分がそれに手を加えて完成させたのだから、それ以上は何も言えないことは牛溝自身わかっていた。しかも十日前に出たばかりの新作に似ていたとは、天のいたずらか。だから、平手の一発でおしまいなのだ。
 渡瀬は意味もわからず、ただのいたずら程度に思っている。牛溝のYシャツを見て渡瀬は言った。
「牛溝さん、Yシャツ汚れてますよ。ほら、襟のところ」
 牛溝はギョッとした。言われて初めて首のまわりが妙に冷たくなっていることに気づいた。知らないうちにYシャツの襟の部分だけが、脂ぎった汗を吸い込んで変色していた。


☆失業?

 結局、教育ソフトの企画はそれ以上進展しなかった。端的にいえば信用をなくしたのだ。NEKOに対しては、他のセクションへの企画出しも予定していた。今回の結果がNEKO社内全体に広まると困ったことになる。

 西岡が会社を興したのは三年ほど前になる。それまでは雑誌の企画編集や専門学校で雑誌編集コースの講師をしていた。
 プログラマーを長く生業としていた牛溝と知り合ったのは、五年ほど前の雑誌のインタビュー記事を担当したときである。「デジタルの現場」というタイトルで、十人ほどのプログラマーと面談した。その中で意気投合したひとりが牛溝だった。といっても<意気投合>は高尚なことでではなく、日本酒が何よりも好きだという単純な共通点からである。
 会社を興すきっかけは、牛溝がプログラマーの限界を感じていると酒の席で漏らしたところから始まる。辞めることを考えているなら一緒にやらないか、と西岡が持ちかけた。プログラムの現役は退いても、ディレクターやプランナーとして開発の指揮をとればいいと牛溝を説得したのだ。
 西岡には仕事上で知り合った開発会社や人間がおおぜいいる。自分が営業をして大手のメーカーから企画や開発の仕事を請け負うのは、西岡にしてみれば十分可能性があると思えた。
 都心からちょっと離れた所沢市のマンションの一室を、当面の事務所として借りた。家賃が都心と比べ格安なのと、池袋や新宿までの交通の便がいいというのがその理由である。
 事務所を借りるとすぐ、牛溝は勤めていた会社を退職して所沢市内に引っ越してきた。西岡も横浜のマンションから、妻子とともに所沢市内の中古住宅を購入して移り住んだ。ローンの頭金を少額に抑え、マンションを売り払った差額により会社の設立費用を捻出した。西岡は新会社にこの先を賭けていた。
 二年でメドをつけようというのが西岡と牛溝の当初の目標だった。
 一年目は運よく西岡の知り合いの会社から仕事をもらえた。テレビゲームの企画・開発と、発売にあたっての宣伝販促プランを任された。ゲームの企画は牛溝を中心に、宣伝販促は雑誌社に顔の利く西岡が担当し、幸先のいいスタートを切ることができた。
 ところが開発に入るとトラブルが続発し、スケジュールは半年ほど遅れてしまう。西岡が紹介した開発会社の社長と牛溝との間に企画の仕様をめぐり些細な主張のすれ違いがあり、それがやがて深い溝になってしまったのが遅れの最大要因だった。牛溝はプロデューサーの立場で開発会社の社長はディレクターの立場であった。ソフトの開発ではよく聞く話ではある。
 ともあれ、クライアント会社には迷惑をかけてしまった。当然ながら、その会社からの次の仕事は期待できない。西岡にとっては、関係した知人とのつきあいも変化せざるをえない。幸先のいいスタートと思っていたのが、結果的に最悪になってしまった。
 そのゲーム開発の終盤のデバッグ作業に、西岡がちょうど講師をしていた専門学校の生徒をアルバイトに使った。そのうちのひとりが渡瀬である。武宮は雑誌社でアルバイトをしていたのだが、たまたま彼女の上司と西岡が友人であったことが縁となった。
 会社は三年目を迎えられたが、当初の目標のメドとは程遠い業績となった。西岡は編集とライターの仕事を武宮とともにこなし定期的に売上をあげてはいたが、それだけで会社を運営するには到底およばない額だった。
 ちょうどそんなころ、知人からNEKOという会社の教育ソフト企画なら紹介すると言われ、一も二もなく飛びついたのだった。

 約二カ月かけて、ようやく最終案で契約に至ると踏んでいた西岡にとって、結末は想定外のダメージとなった。運営資金も底をつきはじめている。あと二カ月分の給与を支払うと次の月には全額支払えない状況になる。融資を受けるにも担保がない。自宅の家はローンで根抵当が付いている。業績を見れば、どの銀行も二の足を踏むだろう。
 西岡は頭を抱えた。

 五月の連休に入る直前、西岡は四畳半の社長室に全員を集めた。
「みんなに話がある。会社の現状についてだ」
 牛溝はあれ以来、まともに西岡の目を直視できない。渡瀬はいつものように緊張しながら伏し目がちでいる。武宮だけが西岡を正視していた。
「NEKOとの仕事はまだまだこれからの勝負なんだが、なかなかこちらの思うようにはいかない。教育ソフトに集中していたので他の企画をペンディングにしていたが、全力を挙げて短期間でまとめてほしい」
 西岡はタバコに火をつけてから、また話し出した。
「ざっくばらんな話だがな、夏までになんとかしないと危ないんだ」
 渡瀬はドキッとして目を上げる。次の言葉で<辞めてくれないか>と言われるかもしれない。まっさきに辞めさせられるとしたら自分だと思っている。西岡の重い発言のあと、沈黙がつづく。外で子どもたちの嬌声が上がり、下校して帰宅に急ぐ家族のざわめきが妙に寒々しく聞こえる。氷の部屋に閉じ込められたかのような絶望感が空気を希薄にしている。
 牛溝がおもむろに話し始めた。
「とにかく他の企画を進めてみますが、担当の外注会社にはしばらく連絡していなかったので協力してくれるかどうか……。一応、以前の叩き台からスタートしますが、時間はちょっとかかるかもしれません」
「やるしかないんだよ!」
 怒気を含んだ西岡の声が渡瀬の腹の中で反響する。牛溝は返す言葉もなく目を伏せた。武宮だけが、口を少し尖らせて西岡を凝視している。
 西岡は小さな身体を深深と椅子にあずけ、瞑想するように目を閉じ天を仰いだ。
 そのまま天井に向かって話しだす。
「まあ、みんな覚悟だけはしておいてほしい」
 その言葉が全員解雇だと示唆していることは間違いない。それまでじっと聞いていた武宮が、突然目をまるくして声を吐き出す。
「あたしもですかあ?」
 武宮の言葉の真意はわからないが、渡瀬にとってはこう聞こえた。(渡瀬くんが辞めるのは当然のこととして……)と。ここで、何か言わなくちゃと、渡瀬は喉元でうろうろしている声をようやく発した。
「社長。あ、あの、ぼくゲームの企画を考えたんです。友だちはみんなスゴイって言ってくれてます。まだ、ちゃんとまとめてないんですが、えーと…休み明けにはお見せします」
 何を言っているのか自分でもわからなかった。口からでまかせとはこのことだった。そんな企画なんてどこにもない。それでも渡瀬は社長の口元をじっと見つめた。
「ゲーム企画か……。まあ、とにかく見せてくれ。きみのオリジナルなのか?」
 牛溝は横目で渡瀬を見ている。ほんとうか?という眼差しだ。また、そこらへんによくあるゲームの真似事になるのがオチだと言わんばかりに。
「はい、友だちも見たことが、な、ないシステムだと……」
 いい加減によせ、と自分を諭しても、口は機械のように動いていく。ウソの罪悪感より<辞めろ>とこの場で言われる恐怖感にとらわれていることを、渡瀬はつくづく情けなく思う。
「ま、話は以上だ。俺もがんばるが、みんなも崖っぷちだと思ってがんばってくれ」
 渡瀬は小さく、ふぅーと溜め息をついた。前回の失敗はもともと自分に責任がある。牛溝は先輩の度量を示しているのか、そのことを言わないでいる。社長についウソ八百を並べてしまったのも、牛溝に対する後ろめたさと名誉挽回したいという気持ちが噴き出してのことだった。

 仕事部屋に戻ると武宮が話しかけてきた。
「ねえ、渡瀬くん。さっきの話ほんと?」
「え、さっきの話って?」
「ほら、ゲーム。あなたのオリジナルってやつ」
「あ、ああ、そうだよ」
「でも、変よねえ」
「何が」
「だって紙の上の話でしょ。もうサンプルがあるとか、パソコンで試しに遊べるとかっていうならわかるけど。そんなに簡単におもしろいゲームかどうかってわかるの?」
 ふたりの会話を傍で聞いていた牛溝が、そこでうなずいている。
「紙の上だけじゃないよ。パ、パソコン上で少しは遊べるようにしてあるんだから」
 へえー、と訝しげな顔をして武宮は席についた。
 きっと武宮や牛溝は勘づいているのだろう。確かに自宅のパソコンにゲームのアイデアはいくつか書き留めてある。その中には絵を描いたものもある。しかし、それらは自分でも到底、完成されたものだとは思えない。社長に宣言してしまったからには何かつくり出さなければしかたがない。これまでの人生で最悪のゴールデンウィークになることはまちがいないと渡瀬は腹を括った。
 武宮がぼそっと独り言を口にした。
「窮鼠NEKOを咬む、か。ぎゃふんと言わせてやりたいなあ」
 うまいジョークに拍手したいところだが、牛溝も渡瀬も苦笑いするのがやっとだった。


☆誘惑

 翌日から三連休ということもあり、池袋の駅は夕刻には待ち合わせで人垣ができていた。
 渡瀬のアパートは西武池袋線の東長崎駅から歩いて二分の線路沿いにある。所沢から急行に乗り、石神井公園駅で各駅停車に乗り換えるのがいつものコースだった。
 今日ばかりはまっすぐアパートに帰る気になれなかった。そのまま急行で池袋まで出てきたのである。
 学生時代の友人とは、ここのところ会う機会がめっきり減っていた。就職した者もいるが、ほとんどはアルバイト生活をしている。景気が落ち込んでいる今は、昔のようにフリーターでのんびり生活を楽しむ余裕なんてない。学校で講師をしていた西岡に拾われたのは運がよかった。就職活動の結果が全滅だったからだ。西岡は編集技術を教えていたが、実を言うとあまり興味がなかった。渡瀬はゲームの企画をやりたかった。ゲームのデバッグを通して牛溝と知りあえたことで、西岡の会社に興味を持った。いずれゲーム企画をやらせてもらえる可能性が出てきたからだ。
 街はすでにネオンサインで変貌していた。気分転換にゲームセンターにでも行こうと思っていた。東口を出て、横断歩道の前で信号が変わるのを待つ。
 ふいに後ろから肩を叩かれた。このあいだ牛溝にされて以来、いやな感触が肩に残っている。
 おそるおそる振り向くと、武宮がニッコリと立っていた。
「どうしたの? 遊んでいる場合じゃないんじゃなーい?」
 大きな瞳で探るような目つきをする。
「べつに、ちょっとした気分転換だよ」
 これは本当の気持ちだった。
「あ、そう。誰かと待ち合わせ?」
「いや、ひとりだよ」
「ふーん。あたしもひとりなんだ」
 武宮はもう勝手に渡瀬の次の行動を決めつけている。いっしょにつき合えと言っているのだ。武宮に納得して帰ってもらうのにきっと十五分は要するだろう。それも面倒だった。ゲームセンターで遊ぶなら別に会話もいらない。
「ゲーセンに行くんだけど、よかったら……」
 武宮は許可を与えるようにひとつ首をたてに振ると、いきなり走り出した。
「信号変わっちゃうわよ、早く!」
 急に身体を反転して駆け出そうとしたとき、足首に痛みが走った。何年か前に一度捻挫を経験している。どうも同じような痛みである。武宮が心配そうに顔をうかがうが、だいじょうぶだと言ってごまかした。きっと夜中には相当腫れるだろう。
 ゲームセンターは相変わらず人が多い。人気ゲーム機に若者やサラリーマンが列を作っている。
 武宮はさっそく、クレーンゲームのぬいぐるみを獲得するために両替をする。足首のことも気になり、渡瀬は並ぶ気力もなく彼女のようすを眺めていた。武宮は三回挑戦して、あっさりやめた。
「どうしたの渡瀬くん、ゲームしないの?」
「こんなに混んでてはね。時間かかりそうで……」
「そうだ、おなか空かない?」
「あ、うん、まあね」
 はじめから外で食事をすませようと思っていた。ひとりで食べるよりはいい。
「ね、あたし、いいお店知ってるの。窮屈だけど安くておいしいんだ」
 そう言うと、武宮は返事を待たずに歩き出す。
 店は映画館の裏手のビルの二階にあった。思ったよりも広いスペースだったが、空いている席は見あたらなかった。武宮が店員と交渉して、カウンターに二人分のスペースをつくってもらった。
 なんとか椅子に座り込むと渡瀬は言った。
「窮屈の意味がわかったよ」
  武宮は苦笑して、いつもはこんなふうに強引じゃないのよ、と小声で言う。
 <串焼き>という看板を出している店は、ほとんどがいわゆる飲み屋である。武宮の言うとおり、この店のメニューは安い。店内を見渡してみると、客相は八割がた若い男女だった。
 店の熱気にあてられたように<超冷>と書いてあるビールを注文した。
「ねえ、今日の話なんだけど」
  ビールを注文すると同時に、武宮が話しだした。また今日の話をぶり返すのかと渡瀬は口を結んだ。武宮はそれを察知してか、考えながら言葉をつなぐ。
「社長はどうするのかなあ、実際のところ」
 話の核心が会社自体のことであればと、結んだ口をゆるめた。いかに楽天的な性格でも、会社が倒産寸前だと言われれば不安になるのは当然だった。自分のことで頭がいっぱいになっていたことを多少恥じた。武宮にしても牛溝にしても、社長の西岡にしても、先行きの不安に頭を悩ませているに違いなかった。
「わからないけど、みんなでがんばるしかないと思う」
「そうよね、あとは運まかせ」
「編集の仕事は順調なんでしょ?」
「うーん、そうね。でも実入りが少ないから」
「そうなんだ」
「社長ひとりでがんばって。あたしなんか、ちょっぴりしか」
 初めて武宮の弱音を聞いた。そのせいでタイミングを失い、しばらく何も言えなくなってしまった。ちょうどそこへ注文した生ビールがきた。
「ぼくに比べたら、武宮さんの方が会社に貢献していると思うよ」
 渡瀬はようやく応答して、ジョッキを持ち上げ乾杯のしぐさをした。武宮は首を振りながらもほっとしたような笑みで乾杯を返した。渡瀬は自分に対する昼間の武宮の残酷な発言を一瞬思い起こしたが、今のひとことで、もうどうでもよくなった。
 店員がオーダーをたずねてきた。武宮があれこれ注文をしている間に、話題を仕事のことから切り離そうと渡瀬は考えていた。注文が終わったところを見計らって切り出した。
「武宮さん、そういえば飲めるんだったっけ?」
「うん。飲めないことにしてたの。いつも飲みに誘われるの面倒でしょ」
「あ、そうか。社長も牛溝さんも好きだからなあ」
「それに家が遠いでしょ。遅くなるのいやだから」
「川崎だったよね。会社までどのくらいかかるの?」
「二時間半くらい。もう旅って感じ」
 大げさな素振りに大きな目をさらに丸くして武宮は自嘲ぎみに笑う。渡瀬もつられて笑い出す。
「渡瀬くん、ごめんね」
 急に神妙な態度になる。
「どうしたの?」
「実は今日、会う約束してた友だちが急にキャンセルしてきて、目の前に渡瀬くんがいたから」
「いや、かまわないさ。どうせ何をするってわけじゃなかったし」
 約束の相手はボーイフレンドに違いない。会社で見るときはほとんど化粧っ気がないのに、今はきちんと化粧している。弱気な態度はデートをすっぽかされたことも影響しているのだろう。渡瀬は自分のためにも楽しい雰囲気にしたかった。ふと思いついて店員にマッチをせがんだ。
「武宮さん、マッチ棒遊び知ってる?」
「え、火遊び?」
 冗談の機転はいつでもOKのようだ。
「まったく、もう。違うよ、マッチ棒を使ったゲームだよ」
「ふーん、知らない」
「いくつかあるんだけどね、まずはこれをやってみよう」
 渡瀬は<1/4>とマッチ棒で形をつくった。

「この中の一本だけ動かして、<2>にしてください」
「えー、一本だけでー」
 まんざらでもないのだろう。身体を乗り出してくる。渡瀬の腕に武宮の肩が触れる。隣ともほとんど接している状態なので、そのまま動けない。ほんの少し鼓動が速まった。
「ちゃんとした数字の<2>にするの?」
「うーん、ちゃんと<2>になるよ」
「えー、トンチじゃないの?」
「けっこうマジ。でも厳密に言うと文句が出るかな」
 武宮はしきりにマッチ棒を動かしているが、見当ちがいばかりだ。
「こうすれば、<1>にはなるわね、10分の10、漢字で…ってどう?」
  武宮は<+/+>の形にして言う。
「もっと美しく、かつ論理的なんだ」
 勝ち誇ったように聞こえる渡瀬の言い方に、武宮は唇をとがらせる。ああでもない、こうでもないと五分ばかり考えていたが、ようやく降参した。渡瀬は黙って分子の< 1>を取り上げ、<4>の左横に斜めにして置いた。
「あ、スゴイ! なるほどー。√を使うのね」
 周囲の人の視線が集中するほど大きな声をあげてしまい、武宮はお茶目な表情をする。
「ね、答えがわかると納得でしょ?」
「うんうん、納得納得」
 首をすくめながら二度三度たてに振る。
「大きな声を出さないと約束してくれるなら、次の問題出すけど?」
 渡瀬はわざと小声でささやいた。
 武宮は小首を傾げておどけて見せる。今までに知らない武宮を見るようで、渡瀬はそれなりに楽しくなってくる。昼間は武宮の言い方に悪意を感じたが、それも自分の早とちりに思えてきた。
 こんどはマッチ棒を十二本使い、まず正六角形を六本でつくり、中心から各頂点に六本を置き、正三角形六個で構成される正六角形をつくる。

「さて、次の問題。ここからマッチ棒を二本動かして、正三角形の数を五個にしてください」
「それはかんたんでしょ。外側の二本を取ってここに置けば」
「ああ、宙ぶらりんの棒が出るとダメなんだ。必ずどれもが三角形の一辺になっていないと」
「なら、これでどう?」
「そうだね。じゃ、さらに二本動かして、今度は正三角形を四個にして」
「えー、どんどん減らしていくの?」
「そう、最後は二個になるまでね」
「うそー、二個になるの?」
 武宮はもう魔法にかけられたように熱中しだした。串焼き料理が運ばれてきたが、その皿をカウンターの奥へ押しのける。
 渡瀬は捻挫のことをうっかりしていた。ビールを飲んでしまったことを悔やんだが、今の気分を どうしても持続したかった。
「ねえ、大きな三角形でもいいの?」

武宮は四個から三個にするとき、そう質問した。
「当たり。もうわかるね」
 しかし、三個から二個にはどうしてもならない。武宮は降参の合図をした。
「最初が肝心なんだ。こういう構図にしないと、最後に二個にならないのさ」
 渡瀬は順に三角形を一個ずつ減らして二個にしてみせた。
 マッチ棒をじっと見つめていた武宮が、いきなり渡瀬に神妙な顔を向ける。顔と顔が接近した。あわてて身を起こした渡瀬に武宮は言った。
「渡瀬くん。これってゲーム企画の原案になるんじゃない?」
 真顔の武宮が妙に大人っぽく見えた。
「んー、どうかなー」
 ゲームソフトにするなんて考えたこともなかった。すでに多くの人が知っているから、というのも理由のひとつである。
「ほら、こういうかんたんなパズルをいっぱい集めて、とか」
「いや、それは……」
「ダメ?」
「ダメってわけじゃないけど、ただの寄せ集めじゃ……」
「あら、おもしろければいいじゃない。それとも、人のつくったものがイヤなんて、クリエイターぶるつもり?」
 刺のある言い方だ。自分はクリエイターだなんて、人前で言える実績も経験もないことはわかっている。しかし、そうなりたいと望んではいる。例の教育ソフトの最終案にしても、自分ではオリジナルをつくったつもりだった。でも先に誰かが商品化していただけなんだ。勉強不足だと言われたら、それは率直に受けとめるしかないだろう。武宮は、悪気のあるなしはともかく直接的に言い過ぎる、と渡瀬は苦々しく思う。
「今、考えている企画があるから、それはいいよ」
 言ってからしまったと思った。また武宮に突っ込まれる。渡瀬は話題を変えようと言葉をつないだ。
「ところで、違う問題があるんだけど、宿題にどう?」
「またマッチ棒?」
「いや、今度は紙に描くよ」
 渡瀬はボールペンをバッグから取り出すと、紙ナプキンに図を描き始めた。単純な図形である。○がたてよこ三個ずつ計九個を整然と並べただけである。

「はい、このボールペンを持って」
 武宮は串焼きを食べながら聞いている。やっと空腹に目覚めたようだ。
「いいかい、四本の直線を一筆書きふうにつなげていって、この九つの○の中心をすべて通過すれば正解だ」
「え? かんたんじゃない」
「じゃ、やってみて」
 武宮はいちばん左下の○から上に向かって三個の○を通過し、右に折れてさらに下に折れて、ペンを止めた。
「いま三本よね。あれ?」
 再び挑戦する。どうしても五本の直線になってしまう。
「ねえ、斜めでもいいの?」
「もちろん条件は直線だからかまわないさ」
 持っていた串焼きをまた皿に戻してしまった。何度ためしても五本になってしまう。
「ホントにできるの?」
「だから問題になるんだよ」
「あーん、もう一杯ビール頼んじゃお」
「まだ飲むの? 宿題にしようと思ったのに」
 ビールと串焼きを交互に口に入れながら、真剣なまなざしで問題と格闘している。渡瀬も手持ちぶさたでビールをおかわりしてしまった。二十分ほど考えたあげく、武宮はあきらめて正解を教えてとねだる。休み明けに教えるから、それまで考えてみたら、と渡瀬は取り合わなかった。ささやかな仕返しをした気分だった。

 店を出ると、意外に足元がふらついていた。足首の痛みはほとんど感じない。武宮もそれほど酒に強くはないらしく、顔をあからめて上気している。渡瀬は駅に向かおうとしたところ、武宮が呼び止めた。
「渡瀬くん、あたしこのまま電車に乗れないから、少し酔いざまししていい?」
「あ、ああ、いいよ。時間は……八時か、まだ早いな」
 武宮は立ち止まったまま動かない。渡瀬は喫茶店を見つけようとひとり歩き出した。一歩足を踏み出した武宮は、よろけて路上に倒れこんだ。気配に気づき、渡瀬はあわてて武宮を抱き起こす。人通りの多い街路だけに恥ずかしさがこみ上げてくる。すぐ近くに喫茶店はあった。武宮は歩けるからと言うが足はもつれている。渡瀬は武宮の腕を自分の肩に回し、急いで店に入る。自動ドアが開くと、いかにもボーイらしい姿の店員が地下へ案内してくれた。
 店内はかなり照明を落としている。階段を降りてすぐの二人掛け席の壁がわに武宮を座らせた。
 水とおしぼりを運んできて店員が注文をきく。渡瀬はメニューを見ずにアイスコーヒーをふたつ頼んだ。武宮におしぼりを勧めてようすをうかがう。
「だいじょうぶかい?」
「ん、うん。ちょっと酔っぱらっちゃったみたい。急に目が眩んで、貧血かも」
 言葉はまだフラついていた。グラスの水をグイと飲み、柔らかい椅子の背にもたれる。と、急に姿勢をただして真顔で言う。
「ねえ、渡瀬くん。ここ変じゃない?」
 渡瀬もどこか雰囲気がおかしいと察してはいたが、武宮のことばかり気にして店内をつぶさに観察する余裕はなかった。まばらな客席から含み笑いのような声がもれていた。薄暗さに目がなれてくると、数組の男女がまばらにいるのがわかった。席はほとんど椅子の背しか見えない。
「渡瀬くん、ここってもしかしてデート喫茶じゃないの?」
 渡瀬はそう言われても一瞬何のことかわからなかった。しかし、言葉の意味は想像できた。あわてて武宮に弁解する。
「すぐ近くだったんで、知らずに入って…」
「いいわ。もう入ってしまったんだから。でも、ちょっとドキドキしない?」
 幸い武宮はそれ以上責める気はないらしい。酔いのせいか、武宮の目がきらめいているように見える。
「ね、渡瀬くん。あそこの席、けっこういい雰囲気じゃない?」
 指差す方向に目を転じると、ふたつの頭の影が重なっている。思わず女性の声が漏れる。渡瀬は緊張で身体が固まってしまった。
 目を戻すと、武宮はジッと渡瀬を見つめている。
「アイスコーヒー飲み終わったら出ようよ」
 渡瀬は気まずい状況から早く抜け出したかった。先ほどにも増して自分の右半身と武宮の左半身は強く触れあっている。柔らかな脚の感触が、渡瀬の本能に挑戦状をたたきつけているようだ。渡瀬の理性が揺らぎ始めたとき、肩にドッシリと重みがのしかかった。武宮の顔がすぐそばにある。いつもは気づかない髪の香りが鼻をくすぐる。渡瀬は思いきって口を開いた。
「武宮さん。ぼく…」
そう言いかけたとき、おだやかな寝息が聞こえてきた。武宮はすでに眠りに落ちていた。


☆思考

 家にやっとのことでたどり着くと、十一時を少しまわっていた。
 いつものニュース番組を見ようとテレビを点ける。この時間までに帰れた日は、必ずこの番組を見る。とくにスポーツの結果が見たいのだ。
 しばらく呆然とテレビに目を向けてはいたが、頭の中はデート喫茶の情景でいっぱいだった。女性とデートしたことはもちろんあるが、あんな店は初めての体験である。
 人には絶対知られたくないことだが、渡瀬は二十歳のいまも童貞である。高校のころ、つき合ったコはいたものの、彼女も今にしては珍しく堅い考えの持ち主だった。彼女は四年制大学へ進学し、渡瀬は専門学校へ行った。しばらく連絡を取り合わなくなったまま交際は終わった。専門学校時代は男友だちばかりのつき合いに終始した。
 酔いはすっかりさめた。
 物思いから現実に戻ると足首が疼きだしていた。

 翌朝、駅前商店街の薬局で湿布薬と包帯を買い、足首が固定するようにしっかりと手当をした。すでに足首とわからないほど腫れあがっている。
 ついでに買ってきたパンと牛乳を朝食にする。久しぶりにクラシックのCDをかけてみた。小学生のころ感動したヴィヴァルディの『四季』だ。音質こそいまひとつだが、演奏を聴きながら情景に浸れるのは昔も今も変わらない。
 電話がけたたましく鳴る。せっかくの四季の情景が台無しである。
 見覚えのない電話番号だった。
 とりあえず受話器をとる。
「もしもし…」
「もしもし、渡瀬くん?」
 声で武宮であることはすぐにわかった。
「昨日はごめん。十二時を過ぎちゃったけど、途中からタクシーで帰れたから」
「ああ、よかった。もっと早く起こそうと思ったんだけど、よく寝ていたんで……」
「ごめんねー。でも今朝はおかげですっきり」
 渡瀬は悶々として寝つかれなかったとは、さすがに言えない。複雑な気持ちだったことを悟られたくない。
「例のパズルだけど、妹にもさっそくやらせてるの。けっこう楽しめるわね」
「あ、そう。じゃ宿題を忘れずにね」
「あたしの宿題より、渡瀬くんの宿題のほうがたいへんよ」
「そうか、そうだよね」
 と、渡瀬は急に声のトーンを落とした。久しぶりに、休日の朝にクラシックを聴きながらなごんでいた気分が、その一言で台無しになった。この捻挫だって考えてみれば武宮に会わなけりゃ、と怒りがこみ上げてきた。
「悪いけど、さっそく仕事にとりかかるから……」
「あ、そうだ。あたしもそろそろ出かけなくちゃ。うん、じゃ、がんばってね」
 やけに明るい声が、渡瀬に嫉妬すら感じさせた。
(どうせ会社がつぶれたって、親元で家事手伝いでもなんでもやれる境遇じゃないか。おれは生活がかかってるんだ)
 などと、置いた受話器に毒づいた。彼女の<これから出かける>という言葉だけが頭に残った。
 ともかく、今日を含め三日間で企画案をまとめなければならない。
(まあ、早く思い出させてくれたことだけは感謝してもいいかな)
 と、冷静になって思う。ちょうど出歩けない状況ではあるから、三日三晩家で集中して考えることができる。なまじ元気だと、また昨夜みたいにフラッと気分転換をしてしまうかもしれない。
 テレビ番組を雑誌でチェックして休憩時間を決めた。睡眠を六時間に設定して、それ以外はパソコンにはりついてゲームづくりだ。
 自らを窮地に追い込むことになってしまったが、オリジナルゲーム企画を手がけられるのは不幸中の幸いだと、自分にハッパをかけた。

 まずは、いままでに貯め込んだ(と言っても数本だが)ゲームアイデアのチェックからだ。
 大枚をはたいて購入したマッキントッシュに命を吹き込む。
 チリチリと音を立てながらシステムが起ちあがっていく。
 十七インチの画面に背景の芝生模様が出現する。
 見慣れたアイコンが画面の右端に並ぶ。
 起ちあげ完了。
 つぎに使い馴れたクラリス・ワークスを起動させる。
 ハードディスクに保存したワープロ文書を開く。
 ここで注意書きのウインドウが現れた。 保存された文書はバージョンアップ前のもので、アップ後のソフトで開いていいかとの質問だ。
 そう言えば一年以上も前に作成したものだった。そのころは家にあった父親のマックを無断拝借していた。家を出るときフロッピーに保存して持ってきた。このマックを購入してハードディスクにコピーしたままになっていたのだ。<YES>を押して新しいクラリス・ ワークス文書にする。
 アイデアは六つあった。半分は憶えていたが、あとの半分は忘れていた。いずれにしても突拍子もないものばかりで、説明してもわかってもらえそうにない。名の通っているゲームデザイナーであれば、どんなアイデアでも聞いてくれる人はいるものだ。現状を考えると、ひと目で<売れる企画>と思えなければ社長も牛溝も納得しないだろう。
「ダメだ!」
 と、ファイルを閉じた。
 芝生模様の画面がやけに大きく感じられた。何もかも放り出したい気持ちがよぎる。
 タバコに火を点け、コーヒーを入れる。片足でケンケンをしながらキッチンと居間を往復する。
 一服してから再びデスクについた。
 焦りは禁物だ。
 まず、いまのゲームソフトの流れを考えてみようと渡瀬は思った。
 大作のロールプレイング・ゲームは、いまや二大巨頭の作品が市場を独占している。アクション・ゲームは格闘対戦ものが、これでもかというくらい発売されており、しかも依然人気がある。ならばシミュレーション・ゲームはどうか。これは、かんたんな企画では話にならない。かなり複雑なシステムが要求されているのが現状だ。
ジャンルで考えてみると、パズル系がてっとり早い気がする。しかし、いちばん簡単そうで、実はかえって難しいのかもしれない。
 一世を風靡した『テトリス』を思う。シンプルな図形を使ったパズル・アクションである。何がよかったのか? 渡瀬はとりあえず検証してみることにした。

@シンプルな図形
Aかんたんなルール
B操作がわかりやすく、やりやすい
C初めはやさしいが、だんだん難しくなる
D通信で人間対戦ができる
E携帯用ゲーム機で持ち運びができる

 ゲームボーイ版で、思いつく良さを挙げてみた。

 もちろん、これらすべてを含んだ企画ができあがれば最高である。しかし、そうやすやすとできるわけがない。多くのゲームデザイナーが挑戦しているはずだ。それでも成功した例は皆無に等しいのだから。
 渡瀬はまず、@の部分で図形ではなく文字を使ったらと考える。アルファベットのブロックが落ちてきて、たてよこ斜めで単語ができたら得点になり消える。でも、これももう考えられていそうな気がする。やはり<落ちもの>と呼ばれる同じシステムを踏襲するのはよくない。
 Aのルールについては、ルールづくりを先行するのは難しい。
 では、Bはどうか? 操作ボタンは限られているから考えやすそうだ。しかし、パズルとなると第一条件かどうかは疑問であるし、これも先に考えるものではないだろう。
 Cは、これは最初に考えられたら天才かもしれない。ある程度概要ができてからで、最終的には難易度の調整にまかされるものだろう。
 Dはもっとも基本に置きたいと渡瀬は思っている。が、だからといってここから発想できるわけでもない。
 同じようにEもあとから派生してくる問題だ。
 結論として、@からEまでを個別に考えてもダメなのだろうと渡瀬は思う。『テトリス』はすべてがミックスして成功しているのだ。ひとつの歯車でも外れていたら、あれだけのヒットにはなっていなかったかもしれない。

 初めから大きな壁にぶち当たってしまったような気がした。
 ゲーム企画なんて一生かかっても自分にはできないんじゃないか。ゲームが好きなだけで、ひょっとしたらとても大きな勘違いをしてるんじゃないか。そう思うと拠り所のなくなってしまった自分が見えてくる。何のために生きているのか、何をしようとしているのか、つぎつぎと自己嫌悪を増幅してしまいそうだった。
 中学や高校の友だちのほとんどは大学生であったり、一般社会のサラリーマンになっている。自分はどうして、そういうふつうの道に進めなかったのか。いや、そういう道に進まなかったのは自分の意志だった。
 いろいろなゲームを遊んだ。しかし、やればやるほど感じたのは孤独感だった。コンピュータ相手に喜怒哀楽し、あるいは殺戮を繰り返す自分をヒーロー扱いし、悔しいことがあればその世界に逃げ、たまに友だちと遊んでも腕比べに終始する。もっとみんなで和気あいあいと楽しみたい。そんなゲームを自分でつくれたら……。
 立派な夢を持っているじゃないか、と渡瀬は自答した。
 窓の外は夕闇が迫っていた。
 渡瀬はもう一度、違う角度から検討してみることにした。

十一時まで三時間の睡眠をとった。それから買い置きのカップ麺を夕食にして予定のニュース番組を見た。ひいきのプロ野球チームは大勝していた。やはりファンである球団が勝つと、自然に気分が好転してくる。気分を新たにデスクに向かう。
 自分のつくりたいものは何か? そこから出発してみようと思う。

 @まずは…多人数でも遊べるものがいい。
 Aジャンルは…とくに問わないが、やはり時間的なことも考え合わせるとアドベンチャーかアクションかパズルくらいだろう。
 Bキャラクターは…使わなくても楽しめるものがいい。
 Cグラフィックは…ポリゴンもいいが、二次元でやはり考えよう。
 Dサウンドは…BGMもSE(効果音)も重要だろう。
 Eシステムは…斬新なものにしてみたい。(あくまでも希望であるが……)
 F操作系は…パソコンならマウスだけで動かせるものがいい。
 Gゲーム性は…やはり、やればやるだけ深みの出るものをつくりたい。
 Hターゲットユーザーは…幅広く。(でも結局自分と同じ世代向けかも……)
 I通信対戦は…もちろんできるものならそうしたい。

 とりあえず、ここまで書き留めて一息つく。
 ここからジャンル別に考えることにする。
 はじめはアドベンチャーだ。
 最初の@<多人数でも遊べるもの>で、まず引っかかる。常識的には、この点だけですぐに外すだろう。しかし、常識で考えていては従来の枠を超えられない。渡瀬は藁をもつかむ心地で、あり得ないことでも考えてみたい心境である。
 複数人プレイを前提にすると、従来のアドベンチャー・ゲームは参考にならない。頭の中からプレイしたことのある作品をかき消した。仮にふたりプレイができるとしてみよう。  どんなイメージになるか? Iの<通信対戦>専用であれば可能かもしれない。オンラインゲームの企画ならいけるだろうか? しかし、そのあたりの知識はほとんどない。通信を前提とするのは難しい。
 ふたりで遊ぶには、それぞれのシナリオを用意したらどうだろう。しかし、それでは同時には遊べない。画面を分割したらどうか?
 互いのシナリオを知る必要がないのならそれも可か。かといって、ふたりを主人公と犯人にするわけにはいかないだろう。
 たとえば主人公を探偵にして、もうひとりを助手にしたらどうだろう? 別々の手がかりを見つけさせるのもいいかもしれない。
 渡瀬はいけるような気がして、企画書形式で書き始めた。
 画面構成を描いてみる。その後に分岐システムの例を挙げる。ふたりのプレイヤーの連絡方法や、ヒントの出し方などをイベント的に扱い、その例も挙げてみる。
 かなり時間を費やしたが、ラフな企画案はできあがった。あとは見直しながら注釈などをつけていけば完成する。内心ホッとした。
 長く集中していたので頭の芯が重い。一服しながら首をまわしてコリをほぐす。が、ふと思った。
( いや、待てよ、時間軸はどう管理するんだ? 片方だけが先にシナリオを進めることができるのか? であれば、ふたりの役割やイベントなどはどうなるんだろう? それともシナリオをストップさせておくのか?)
  渡瀬は自問自答を繰り返す。
 解決の糸口を考えうる限りあげてみたが、どうもしっくりとこない。やはり二、三日で片づく問題ではなさそうだ。
  冷蔵庫からかなり前に買ったビールとチップスを取り出す。やけに空腹を感じていた。一気にビールをあおる。
  すでに明け方の薄明かりが窓を青く染めていた。

いつの間に眠ってしまったのか、目をさますと午前十時になろうとしていた。明け方はその気配がなかったのに、外は雨模様だった。連休の日の雨は子どもたちにとっては最悪だ。せっかく予定していた家族の行楽は中止になるかもしれない。家で楽しく過ごせればいいが、と、幼いころのせつない思い出をふりかえる。雨は憂鬱だ。畳の上に寝転がると、一昨日の西岡の怒鳴り声がよみがえってきた。


☆失意

 牛溝は連休を利用して、青森の実家に帰るつもりでいた。三年ぶりの帰郷である。上京してすでに十二年が過ぎていた。
 両親は健在だが、かなりの高齢なのでいつ他界してもおかしくない。親孝行できる余裕もゆとりもないのだが、ここ数年来の親の心配事をかたづけるのも孝行のうちだと思う。それは結婚である。三十歳まで独身をつづけていることは、牛溝の田舎では非難 の対象にあたいする。最近は多少そういった風潮も変わってきているらしいのだが、これが女性の場合だと昔のままである。
 五年ほど前に、中学時代の同窓会が開かれた。牛溝は上京して以来、中学の同窓生とは誰ともつきあいがなかった。仕事の区切りもちょうどよかった頃合いで、郷里で開かれた同窓会に参加した。なつかしい面々との再会は、勢いをかって朝方まで飲み明かすことになった。そのときは珍しく、同じクラスだった女性三人も含まれていた。  ちょうど男どもも三人で、雰囲気的には合コンである。うち、一人の女性は、かつて牛溝があこがれていたクラスのマドンナだった。どちらかというと、見栄えのしない男を自認していた牛溝は、その恋心をおくびにも出せないでいた。
 幸江というその女性と、二軒目の店で隣り合わせに座った。ほんのり頬を染めた彼女は、十年経ってより美しく見える。幸江が話しかけてきた。
「牛溝くんは、まだ独身?」
「ああ、忙しくて、そんな暇ないんだよ」
「あたしも、嫁き遅れなんだ」
 ほんのちょっぴり訛りが出るのは、東京住まいの長い牛溝を意識しているからか。土地から離れない者は、ほとんど訛りがぬけない。男友達がいい例だった。逆に訛りの少ないのは、どこか意識している証拠である。幸江は言い終わると、はにかんだ。
 牛溝は、このときふと昔の思いがこみ上げてくるのを感じた。幸江と恋仲になれたら……。酒も手伝って衝動に変わる。牛溝は十年を隔てて告白する気になった。いきなり口から出た。
「おれ、君のこと好きだったんだ」
 幸江は顔を見ずにうつむいている。つまらないことを言ったもんだと、牛溝は一瞬にして気持ちが萎えた。しばらくの沈黙のあと、突然、幸江は意外な答えを返してきた。
「実はね、あたしも同じ気持ちだったの」
 その時から、幸江との交際が始まった。なかなか会える機会はなかったが、電話や文通をしながら愛を暖めてきた。お互いの両親も交際のことを承知していた。牛溝は仕事を安定させてからと思いつづけ、つい五年の歳月が洋々と流れてしまった。
 今度の帰郷で、牛溝は結婚を申し込むつもりだった。仕事もうまく行き、ようやく軌道に乗れそうな気がしていた。
 しかし、現実には正反対の結果になってしまった。
 それでも結婚を申し込もうと思った。牛溝はこれまでに経験したことのない挫折感にさいなまれている。正直なところ、誰かそばにいて欲しい。きっと幸江なら、そんな自分を励ましてくれるに違いない。
 連休初日の朝、家を出る間際に幸江に電話した。あいさつもそこそこに気持ちは急いていた。
「大事な話がある。きょうの夜、ご両親に会えるかな?」
 ほんとうは、帰ってからまず幸江に話をし、それから段取りをするつもりでいた。しばらくの沈黙のあと、幸江が口を開いた。
「あのね、洋一さん」
 いつもの<洋ちゃん>と呼ばないことで、幸江の真剣な顔が浮かぶ。
「私も大事な話があるの」
 おっとりとした話し方は彼女の性格だが、声に翳りがある。
「どうかしたの?」
 そう言いながら、自虐的な予感が全身を凍りつかせた。つぎの言葉を聞く前に受話器を置いてしまいたい衝動にかられた。それでも予感がはずれることを期待して幸江の言葉を待った。
「あたしね……あたし……ごめんなさい」
 受話器の向こうで泣き崩れる姿が、まぶたの裏に鮮やかに映し出された。予感は残酷にも当たっていた。それ以上、幸江の口から何も聞きたくなかった。幸江は鳴咽をこらえながら、じっと受話器は耳にあてているようだった。
「幸ちゃん、もういいよ。この間電話したときから、何か言いたいことがあるような気がしてたんだ。俺が悪いんだ。君をこんなに待たせてしまって」
<結婚>の二文字を言葉で確認するまではと思い、遠回りに確かめる。
「洋ちゃん、悪いのはあたし。待つことに決めていたのに……ごめんなさい」
「もう戻れないのか?」
「……ごめん」
「……そうか、しかたないな。もう手紙も書けなくなるのか」
 言葉が消え入りそうになるのが自分でもわかった。
 受話器を置いたあと、呆然とその受話器を見つめつづけた。そのまま小一時間が過ぎる。不思議なほど涙は出なかった。鳴るはずのない電話は、今の牛溝にとって生命線に感じられた。唯一この世とのつながりを保てるはずだった電話線は、もう誰とも通い合うことのないように思われた。


☆ひらめき

 昼といっしょのブランチは、またカップ麺になった。卵を落として渡瀬は一応の栄養補給をする。ちょうど食べ終わったころ、電話が鳴った。また武宮だった。
「晴れたら出かける予定だったんだけど、この雨で流れちゃった」
 いきなり私事の不満である。よほど残念なことだったのだろう。
(また例のボーイフレンドにふられたか?)
 企画がうまく進まない苛立ちもあり、つまらない想像さえしてしまう。渡瀬はなんだか都合のいい男になっているような気がして、すぐにでも電話を切りたくなった。
「企画は進んでる?」
「ああ、今やってるとこさ」
「ねえ、例のマッチ棒ゲームなんだけど。やっぱりいいと思うのよ」
「武宮さん、そのことはわかったから、もう……。用件はそれだけ?」
いく分、ぶっきらぼうに言う。武宮は察したのか急に小声であやまると、元気づけの言葉を残して電話を切った。
 内心、ちょっと反省したが、どうでもよかった。今はそれどころじゃないのだ。
 それより、電話があったことで思い出した。確か、母親がこの連休中に訪ねてくることになっていたはずだ。雨でも降らなければ買い物につき合って欲しいと言われていた。  渡瀬は受話器を上げると、実家に電話した。
 父親の野太い声が聞こえてきた。なつかしい反面、少し嫌な感じもしてしまう。
 一人暮らしをはじめて以来、この二カ月ほど父親の声すら聞いていなかった。男親というものは、息子が成人するころになると急によそ行きの態度を取るものなのだろうか。テレビで見たのだが、キタキツネは大きくなった子どもたちを巣穴から追い出す習性があるという。鳥の世界でもやはり同じような習性が多い。人間にもそんな習性の遺伝子メッセージがどこかに残っているのかもしれない。父親と通りいっぺんの会話をしながら、渡瀬はそんなことを考えていた。
 母親はまだ家にいた。出かける直前に大雨になって、しばらく様子を見ていたらしい。渡瀬は事情をかんたんに説明して、この連休中はひとりで仕事をしたいと告げた。  その代わり、つぎの休日にはつき合うことを約束した。一人っ子だけに母親はさびしさを感じているのだろう。渡瀬にしてみれば、将来を考えると甘えてばかりいられない気持ちでいる。捻挫のことには触れないで受話器を置いた。

母親の用件が片づくと、武宮との会話がまたプレイバックしてきた。
 それほどマッチ棒ゲームが気に入ったのだろうか?
 武宮と飲んだ夜を思い起こした。時間の流れをそのままビデオ映像のように描いていく。行き着くところはデート喫茶でのできごと。
 いきなり、武宮と見ず知らずのボーイフレンドが、あのとき密着していた男女と重なった。
 渡瀬は雑念を取り払うように思いきり頭を振った。また貴重な時間を費やしてしまったと悔やんだ。
 二日目の夕闇が迫っていた。
 マックに向かい、クラリス・ワークスのお絵かきツールを起動した。文章にして考えることに疲れていた。それならと、グラフィックから考えてみることにした。
 ツールには、辺の数の入力だけで多角形を描けるメニューがついている。三角形、四角形、五角形、六角形……と自由自在だ。小学校で先生が使う、大きな図形の道具を思い出す。基本の図形なら誰にも親しみのあるものだ。
 初期設定は六角形だった。正六角形をひとつ作りジッと見つめる。デュープを繰り返して蜂の巣のような絵を描いてみる。まるで戦争シミュレーション・ゲームのマップのようだ。すべて消去する。今度はひとつの六角形の内部に対角線を引く。すると六つの正三角形が現れた。マッチ棒ゲームの図だ。渡瀬は今さらながら、なるほどと思う。確かにマッチ棒ゲームはシンプルな正三角形の集合体である。ルールもかんたんだ。それでいて、ちょっと考えさせられる。武宮が気に入るのは道理かもしれない。
 渡瀬は正六角形と正三角形を使って、他のルールが考えられないか試してみようと思った。正三角形をたくさんつくり、それぞれくっつけていく。すると見慣れた図形ができあがる。正三角形ふたつで菱形、三つで台形、四つで大きな正三角形、六つで正六角形、八つで大きな菱形、十二こで大きな台形。全部で七種類の図形をつくり、個別に彩色をほどこす。
 何の気なしにその七種類の図形を組み合わせてみる。さまざまな組み合わせで、ちょっとしたシンボリックな図形が次々とできあがる。まるで新しい玩具を買ってもらった子どものように、渡瀬は嬉々としていろいろなシンボル図形をつくり始めた。
 そのうち、同じ正六角形をつくるのに組み合わせが複数あることに気づいた。
 たとえば大きな台形を上下反対の向きで合わせると正六角形になる。大きな台形ひとつと大きな菱形と大きな正三角形を組み合わせてもできる。同じようにいずれも小さな、正六角形と台形と菱形と正三角形を組み合わせても六角形はできあがる。
 何かが生まれそうな予感に、全身が硬直する。
 突然、稲妻が大きな鳴動を轟かせた。それを合図に雨足が急に強くなってきた。しかし、渡瀬の視覚と聴覚は、このとき何の役割も果たしていなかった。頭の中で図形がつぎつぎと現れては消えていった。
 七種類の図形を駒にして、その組み合わせでできる図形はバラエティに富んでいた。 しかも、それらは整然として、ふしぎな暗号を秘めているのではないかとさえ思う。全身の硬直がほぐれてくる。直感は現実へとひも解かれていく。
 駒を組み合わせるだけでも、小さな子どもにとっては絵合わせ的な遊びとして楽しめる。しかし、それだけなら同じような玩具はすでに売られている。新しいゲームとして必要なのは、七種類の駒を置いていくための盤と、ルールであるはずだ。
 渡瀬は目を閉じると自分の心を探るように集中した。落ち着けと、自らに言う。ふと、誰に遊んでもらいたいのかという考え方が浮かんできた。さらに瞑想の世界に入り込む。誰に贈りたいのか、自分が作り出すもので誰が喜んでくれるのか、そんな思考に落ちていく。ゲームは、自分の世界を作れる反面、それが孤独、孤立という対面世界を作りかねない。そうか、と渡瀬の口から言葉が漏れる。親子で、家族でいっしょに遊べるゲームにしてみたい。
(どうすればいい?)
 気持ちがはやる。それでも、ここからが肝心要であることは承知していた。
(集中しろ、渡瀬!)
 頬を叩いて檄を入れる。
 とりあえず盤をイメージしてみようと、渡瀬はマウスを手にした。
 駒を置くスペースを限定しなければならない。はじめに戻って、大きな正六角形を描く。デュープを繰り返し、さき ほどの蜂の巣をもう一度描いてみる。数を押さえて、中心とその周囲だけの全部で七つの正六角形の集合体にしてみる。そして、すべての六角形に対角線を引いた。
 駒を置いてみる。
  少しせまい。
 全体を縮小して、盤を広げてみることにした。正六角形をさらに周囲に配置してみる。大きな台形の駒をひとつ置いてみてバランスをみる。今の時点では勘でしかない。スペース的にはちょうどいい気もするが、何かしっくりとこない。盤のイメージとしてはゴ チャゴチャし過ぎる気がする。
 渡瀬は駒で組み合わせた正六角形を基本にしてみることにした。つまりは、大きな台形の駒ふたつでできる正六角形を基本の大きさとし、中にさらにラインを引き小さな正三角形の駒がラインで区切られたスペースにはまるよう区分した。すると計二十四個の小さな正三角形で六角形が構成される。この六角形を最初に組み合わせたように七つの集合体にする。

いつの間にか雨音は深夜の静寂に飲み込まれていた。
 テーブルの上にある目覚まし時計がチッチッと正確に、しかもゆっくりと時を刻んでいる。
 盤のイメージとしては整った気がする。
 次にルールである。
 七種類の駒を盤上に置く。正六角形七つすべてを埋めるのに七種類の駒を平均して使っていくと、各々五個ずつくらい必要だった。ふたりで遊ぶなら各々二個から三個ずつあればいい。適当な数の駒を両側に置いて、交互に盤上に置いてみることにした。
(さて、置き方はどうしたらいいか?)
 ここでまた、止まってしまった。複雑なルールは考えやすいが、逆にシンプルなルールとなるとこれが難しい。シンプルさとゲームの深みは裏腹なのだ。
 ラインをグリッドとして考える。これでラインをまたぐような中途半端な置き方はなくなる。
 グリッドラインに合わせて適当に駒を置いてみる。どんどん置いていくと盤上のスペー スがなくなっていく。大きな駒ほどあとの方では置くスペースがなくなる。なるほどと渡瀬はうなずく。とにかく駒を置いたら十点とすると、なるべく多く置くことが目的になる。 そのためには駒を残さないようにしなければならない。
 光明が見えてきた気がする。鼓動が時計のリズムを追い越し、加速する。
 何度かテストプレイを繰り返しているうちに、それでもまた物足りなさや不備を見つけてしまう。
 ランダムに駒を置くのは対戦としての方向性が見えない。
(ならば、接して置いていけばいいか?)
 またテストする。かなりゲームらしくはなった。しかし、置き場所の選択肢が多すぎる。それにゲームの流れも単調である。
(やはりルールが今ひとつだ)
 もう少しなのに、と焦りが募ってくる。
 この大きな壁を乗り越えなければ、何の意味もない。起死回生の企画を出さなければ、会社も自分も同僚もすべて消えてしまう。
 渡瀬は無理に自分を窮地に追い込もうとする。
 牛溝や武宮はどうなるのか?
 いや、そんなことより自分はありふれた社会の一員として生きていけるのだろうか。

 酔っ払いの嬌声が深夜の住宅街に反響した。
 突然、電話が鳴った。シンとした真夜中の電話ほどドキッとするものはない。
 武宮の顔をふと思い浮かべたが、こんな深夜にはかけてこないだろう。
(だれだろう?)
 電話の主は意外にも牛溝だった。
「よお、やってるか?」
「あ、はい、企画ですよね」
「ああ」
「正直言って、苦労してます」
「まあ、そうだろうな。かんたんには行かないもんだ」
 心なしか声が低い。ふだんなら大声で毒づくところだ。会社の状況からして、牛溝も悩んでいるに違いない。それだけのことと渡瀬は思った。
「とにかくがんばってみろ。ダメでもともとだ。まだ若いし、おまえは」
「それって、元気づけてるつもりですか?]
「まあ……」
 しばらく間をおいて、
「とにかく、何があってもくじけるなよ」
 酔って気弱にでもなっているのだろうか、牛溝らしくないセリフだ。
「そんなー、他人事みたいにー」
 あえて明るく振る舞ってみる。
「……」
「何か隠してる切り札でもあるんじゃないですか?」
「……あればとっくに出してるさ」
ふたりとも押し黙る。
「牛溝さん、会社つぶれたらどうします?」
気まずくなりかけて、思わず口をついて出てしまった。
「人のことより、自分の心配だけしてろ」
「ま、そりゃそうですよね。そうだ、どこへでも牛溝さんにくっついていこうかな」
冗談とも本気ともつかない軽い気持ちで言う。できれば、カンガルーの袋にでも飛びこんで隠れてしまいたいというように。牛溝はなんといっても兄貴分なのだから。
「そりゃ、ムリだな」
「そんな、冷たいですよ」
「だから、何とでもなるさ、おまえの若さなら」
「経験値は限りなく0に近いですけどね」
 フ、と電話口で笑みがこぼれた。しかし、それは頼りない笑みだった。それ以上ふたりの会話は盛り上がらずに終わった。
 受話器を置くと、渡瀬は大きく深呼吸して、一気に吐き出した。牛溝とのやりとりを反復しているうちに、また武宮のことを考えていた。
 彼女とは会社の同僚である。それ以外の何物でもない。たまたまデートをすっぽかされた夜、渡瀬が目の前にいた。だから声をかけて、飲んで憂さ晴らしをした。酔っぱらってつい淋しい思いを渡瀬にぶつけようとした。そして今日もまた、約束を反古にされた彼女は渡瀬にその代償を求めようとしている。
  時間が遡る。
 情景が再び映像化する。
 忽然と現れた武宮が横断歩道をスローモーションで渡っていく。追いかけようとして足首を痛めた自分。ゲームセンターは混んでいた。ぬいぐるみを取れなかった武宮の悔しそうな仕草。気の進まぬまま行った串焼きの店の匂い。彼女の腕の感触。他愛もないゲームに熱中している彼女の横顔。いきなりその顔が間近になる。正六角形のマッチ棒……一筆書きのパズル……。
「一筆書きのパズルか……」
 声にならない声でつぶやく。
「四本の直線を切らずにつなげたまま引いていく。つなげたまま……」

「そうだ!」
 近隣に聞こえるほど大声をあげてしまった。
(接して置いていくときに……ここが肝心だぞ、渡瀬)
 ゴクッと喉を鳴らす。
 駒だけで組み合わせたシンボリックな図形は美しかった。
(そうだよ、美しい図形をつくるように、接っして置くときに辺と辺がはみ出さないようにすればいいんだよ)
 さっそく画面上でためしてみる。グリッドラインに沿って大きな台形を中心部分にまず置き、辺に接して大きな菱形を置く。さらにつづけて駒を置いていく。スペースがどんどん減っていき、大きな駒は置けなくなる。そこかしこに残ったスペースに小さな駒を置いていく。
 置き方により、盤の外側の正六角形がピッタリ埋まることもある……。
 心臓の高鳴りが、シンとした部屋を満たした。
 渡瀬は確かな手応えを感じていた。枯れ木に魔法の聖水をふりかけたような、全身にいままで感じたことのない活力がみなぎる。
 クリエイトするということのすばらしさを、初めて理解できたような気がした。
 畳の上に寝ころんで目をつぶる。背中のひんやりとした感触が、いつになくさわやかに感じられた。

 目がさめるとすでに陽は高かった。昨日とはうって変わり青空が広がっている。
 眠りのあとでも余韻は続いていた。朝食を抜きにして渡瀬はさっそく仕上げにかかる。
 電源が入ったままのマックに向かう。
 盤面の図の両側に、七種類の駒からランダムに二十枚ずつ配置する。
(盤の中央の正六角形をスタート地点にしよう。置き方は、最初だけ正六角形の辺の内側に接っして置く。二手目からは、置いた駒に対して接して置けばいい)
 手応えの余韻は、てきぱきとルールを決めさせてくれた。
(さて、勝敗はどうするか? 残った駒の枚数で決める? 周囲の正六角形の陣取りはどうか? しかし、それだけでは序盤に緊張感がない)
 いろいろ頭を悩ましたが、結局、すなおに得点勝負にしようと渡瀬は決めた。
(じゃあ、得点のルールは?)
 置くときに駒が接するのは、一辺のときもあれば複数の辺のときもある。
(それなら……)
 と、一辺につき五点をもらえることにしてみる。ただし、最初の手は接する駒がないので、中心の正六角形の辺を得点対象にすることにした。
 決めた得点ルールでテストプレイする。
(なかなかいいぞ)
 確かに駒の置き方により得点差が生じる。相手の残り駒とのかけひきも常にある。序盤から戦略をたてられるのだ。
 画面を整理しなおして、何度もテストプレイを繰り返す。
 ときどき置けない駒が残るのは、駒数の問題だけでないことがわかった。つまりやり方によって相手の駒を置けなくすることもできるのだ。これはおもしろいと渡瀬は思った。
(そうして、残した駒を減点対象にしてやればいい。駒ひとつにつき二十点くらいの減点でどうだろう? いや、待てよ)
 得点は一辺につき五点なので、減点ルールも同じシステムで構築する。駒の辺数に五点を掛けた合計点がその駒の減点数だ。つまり四角形はマイナス二十点、三角形  はマイナス十五点、大小にかかわらず、というのがわかりやすい。
(すると六角形はマイナス三十点か……ははは)
 急に笑いがこみあげてくる。
 テストプレイをしていて六角形という駒の役割や性格はとてもおもしろく思えた。大事に使いたい駒だが、残るとたいへんな減点になる。
(うまくできてるもんだ)
 渡瀬は他人事のように感心してしまう。一拍おいて、
(完成だ!)
 大げさにガッツポーズした。好きな野球選手がときどき見せるポーズである。
 ゆったりとした気分で、最後にもう一度だけプレイしてみる。できるだけ客観的にゲームを楽しむように始める。
 後半まで進んだとき、心臓が絞めつけられそうになった。勝敗が途中で見えてしまうのだ。そこから何度かためしたが、結果は同じだった。序盤、中盤は問題ない、終盤に  なると勝ち負けがわかってしまいゲームを続ける意欲をなくしてしまう。
(そうだ、うっかり忘れていた。必要なのは大逆転のしかけなんだ)
  問題が残っていたことで、以前のように落ち込むことはなかった。かえって楽しみさえ覚える。
(ある駒にだけ特別な点を与えようか? いや、それでは初めに駒を配るときに公平さを失う)
 盤をジッと見つめる。周囲の六つの正六角形が、渡瀬には何かを訴えているように見えた。
「あっ!」
  ひらめいた!
(周囲の正六角形にボーナス点をもたせるんだ。最後に埋めた者にボーナスを与える。こうすれば、劣勢でも逆転が可能になる)
「ボーナス点をこのくらいにして、と」
 ふたたびテストプレイを繰り返す。ボーナスの効用は確かにある。が、互いにボーナスを取り合うケースが多い。これでは差が出にくい。ボーナスの点数を二種類にしてみる。交互に十点と三十点にした。試してみると、これは差が生じた。おまけに、ボーナスの取り合いに関してのかけひきもある。十点のボーナスをわざと相手に取らせ、そのかわりに三十点を自分が取るような手も生まれたのだ。
 渡瀬はふしぎな気分だった。気負いのない安らかな心を感じていた。
  パソコン画面には、パズル・ゲーム作品がある。
 頭の中ではヴィヴァルディの『四季』がゆったりと流れている。
 窓ガラスを通してオレンジ色の優しい暖かい光が渡瀬を包み込む。
 ようやくクリエイターへの第一歩を踏み出せたような充足感を、渡瀬は享受していた。
(残る課題は、駒の配布ルールか)
 ゲームの初めにプレイヤーに配る駒をどうするか? 同じ駒を振り分けるのは直感的によくないと思えた。なんとかランダムに配れないものか、と思案する。さすがに、これだけは時間がかかりそうだった。夜になる前にと、渡瀬は外出の支度をはじめる。湿布を新しくして包帯を強めに巻く。ベランダで雨曝しになっていたサンダルをはいて外に出た。
まばらにネオンが点りはじめた商店街を通り過ぎ、小学校の手前にポツンとある文房具店へ入る。厚紙数枚とカッターマットとカッターと糊を買う。企画書だけでなく、実際に遊んでみるためのサンプルをつくるつもりだった。


☆不意の知らせ

 妹に打ち明けられたことで、武宮響子は連休を台無しにされた思いだった。
「どうしよう、ねえ、おねえちゃん」
「ばか、あんたっていつも最後は<おねえちゃん>なんだから」
 高校二年生の玲子が年齢よりもフケて見えるのは、化粧をおぼえたてのせいである。中身は中学生と言ってもおかしくない、と響子は思っている。
「おとうさんには内緒にしてよ」
 玲子はまだ幼さの残る丸顔に真剣な眼差しをつくる。
「何言ってるの、バレるに決まってるでしょ。この際だから、ぜーんぶ白状しちゃうのね」
「そんな薄情なあ」
「ばか、こんなときによくつまらない冗談なんか言えるわねえ」
「えへっ。でもさあ友達なんか、もう二回も経験してるのよ」
「ああー、もう話にならない。他人のことなんかどうでもいいの。あんたのお腹のことだけ考えなさい。いったい誰なの? 相手の男は」
「うーん。サラリーマンの人」
 玲子はまだ膨れてもいない腹をさすりながらこたえる。
「どこの誰?」
「名前しか知らないの」
「いったい、どこで知り合ったのよー」
「……クラブ」
 ぶっきらぼうに答えると、玲子はベッドにダイビングした。響子は一瞬ドキッとする。注意したほうがいいのだろうが、どう言っていいのかわからない。姉の威厳をつくろいながら話をつづける。
「まーったく、もう。で、その男には話したの?」
「ううん、だって恋人じゃないもん」
「ま、まさか、あんた! 援助交際……」
「違うわよ、そんなんじゃない。グループ交際してて旅行に行ったとき……ちょっと魔が差しただけ」
「とにかく電話しなさいよ、その男に」
「ええー、何て言うのよ」
「あなたの子どもができたから、相談したいとかなんとか」
「やだあ、そんなこと言えるわけないじゃない、超ダサ」
「何で言えないの?」
「だってさあ、好きでもないのに……」
「あんたって、ほんとうに、バカ!ね」
 響子は大げさに全身で<あきれた>仕草をし、部屋を跳び出てドアを乱暴に閉めた。
  結局、響子はまず母親の千津子にだけ相談することにした。こんなときは母親こそ頼りになると相場が決まっている。武宮家は男は父親だけで、母と姉妹の女三人が生活の主導権を握っている。もちろん収入のほとんどは父親の給料に頼っているわけだが。
 母親の狼狽ぶりは当然ながら目に余るものだった。響子はうまくなだめすかした。当世、同じ目に遭う親のそれは多いこと。女も処女である時代は古く、妊娠経験さえ将来の結婚になんら支障をきたすものではない、などと、やや誇張しながら、千津子の理解を得るのに必死だった。響子の援護のおかげで、千津子は今後の仕切り役を承諾してくれた。かわいい妹のことではあるが、事が事だけに自分ひとりでは手に負えない。響子はホッと胸をなでおろした。
 一夜明けた連休の二日目、響子は母親の千津子とともに玲子の相手の男と会うことになった。朝早く、約束していた友人にキャンセルの電話を入れた。
 雨が降りしきる渋谷のはずれにある喫茶店で男と会った。二十代前半の、まだ社会人になって間もない華奢な男だった。玲子の言うとおり、どこにでもいるふつうのサラリーマンである。しかも気弱そうな感じで、淡々と話す。響子は話をしているうちに、殴りかかりたい衝動にかられた。話の内容に対してそう思ったのか、どことなく同僚の渡瀬に似ている感じを受けたからなのか……。
 話は簡単にけりがついた。もちろん結婚など考えられない、両人とも同じ気持ちだった。玲子は責任を追求しないでほしいと言っていたが、少なくとも中絶のための費用は男に出させることにした。今後のつきあいは、玲子が望まないということで、男に二度と会わないことを約束させ、念書をとった。
 それで事件は終わった。しかし、響子は、自身の心の奥底に小さな渦が沸き起こるのを感じていた。その渦には溺れかけている別の男の顔がチラついていた。
 憔悴して家に戻り部屋に閉じこもると、響子は手帳に書きとどめてある渡瀬の電話番号を眺めていた。
(いまごろ四苦八苦してもがいているんだろうなあ)
 と、昨日の電話を思い出していた。飲み屋で渡瀬から教えてもらったマッチ棒ゲームを妹に解かせた。するとゲーム好きな妹があまりにも感心するので、急に渡瀬に話したくなったのだった。
 ふたたびマッチ棒ゲームを思い起こす。二本のマッチ棒を移動させて新たな三角形を作っていく。しかも、その際に余分な三角を消して減らしていく。最終的には三角形の数を二個まで減らすが、その大きさは元の四倍になる。
(二本のマッチ棒は男と女かもしれない)
ふと響子は思う。はじめは消耗するだけの関係でも、最後には豊かな関係に落ち着く。これからの自分の人生を想定しながらそんな考えが浮かんだのかどうか、響子自身わからずにいた。
昼間の情景を思い出す。相手の男の不甲斐なさに、なんとなく渡瀬をダブらせて怒りが増したようにも思える。響子はいきなり受話器を取り上げ、電話番号を押した。 「はい、渡瀬です」
「はい、渡瀬です、じゃないわよ」
思わず、溺れてないで早く脱出しなさい、と言いそうになった。勝手に想像して、勝手にイラついている自分に気づいて頬を染めた。
「何か悪いことでもしたかなぁ。ご機嫌斜めのようだけど」
渡瀬は、わけのわからない響子のひとことに一瞬ムッとしたが、例の喫茶店のこともあり、気後れ気味にそう言った。
 いつもの凡々とした渡瀬の声を聞いたとたん、イライラ感がなぜか和らいだ。今までに無い何かが響子の心の内に染みこんでくる。決して嫌な感触ではなく、どちらかと言えばくすぐったいという感触に近い。無言の時間が電話線を行き来する。
「ごめん、悪いけど切るよ」
どれくらいの時間が経ったのか、30秒くらいか5分くらい経ったのか、渡瀬の声が耳の奥でこだました。響子はあわてて言葉をかえす。
「冗談よ、冗談。どう? しっかり考えてる?」
「ん、ああ、いろいろとね」
「そう、ならいいわ」
「なんだか見張られてるみたいで、いやだなぁ」
「ごめん、ごめん、そんなんじゃなく、元気づけようと思ってね」
「そう、ありがとう」
「じゃあね。がんばってね」
渡瀬の声に迷惑そうな表情を感じて、響子はあわてて話を終えた。
翌日、母親の千津子は父親に一連のできごとを報告した。ふだんおとなしい父親が猛り狂うのを響子は初めて見た。それでも女三人の団結は強い。父親はあきれて、プイと外出してしまった。そのあと千津子から聞いたところによると、父親も若いころ、同じ過ちを犯したことがあるのだという。相手は驚いたことに母だった。生まれていれば、響子に兄か姉がいたことになる。それを聞いて、ふと、妹の存在がかけがえのないものに感じられた。
「ねえ、おかあさん。あたしが結婚するって考えられる?」
キッチンで夕食の支度をしている千津子を手伝いながら、響子はたずねた。
「あら、まだ結婚なんて考えられないって、このあいだ言っていたじゃない」
手慣れた包丁さばきを見せながら千津子は言う。
「いやねえ、例えよ、たとえばっていうこと」
「あなたはね、くれぐれも間違いのないようにしてよ」
「もう、玲子とは違うんだから。いっしょにしないでよ」
鍋に味噌を溶かしながら、響子は甘えるように口を尖らせる。
「でも、結婚して子どもが生まれるって、どんな感じなのかなあ」
「いつか、その日がくればわかるわよ。それまでは<子ども>ね」
「まあた、いいの? いつまでも子どもで」
「おとうさんは、そう思ってるみたいよ」
「ふうーん。父親ってそんなものなのよね。で、おかあさんは?」
「あなたたちが元気で生きていてくれればいいわ」
「あらあら、母親ぶって」
「こら、親をからかうもんじゃないわよ。ほら、もうテーブルに出して、みんな呼んでね」
何気ない母親との会話をとおして、響子は心の平和を取り戻していた。
そこへ電話がけたたましく鳴り出した。
それは、あわてふためく社長の西岡からだった。


☆責任

部屋に戻ると渡瀬はマックから図形をプリントアウトした。
駒を十個ずつ、なれないカッターを使って切り取っていく。小一時間ほどで作業は終わった。
さっそくサンプルを試してみようとしたところで、電話が入った。おそらく家族か学生時代の友だちだろう。あとは、ときどきかかってくるいかがわしいセールスだ。しばらく放っておいたが、なかなか鳴りやまない。しかたなく受話器を上げた。
「いたの? いたなら早く出なさいよ!」
怒気をあらわにした声が受話器からとび出してきた。思わず耳を遠ざける。武宮だった。性急な口振りはいつものことだが、いつもより一オクターブも高い声に胸騒ぎを感じた。
「留守電入れたのに返事がないし、いったい何してたのよ」
ずいぶんな言われかただ。渡瀬はムッとして言い返そうとしたが、武宮は話しつづけている。
「牛溝さんが、突然倒れて、病院に。社長が、付き添って」
息を切らしながら武宮は早口に言う。
渡瀬は何が起こっているのかわからなかった。
「どうしたんだい、病気かい?」
「ちがうの……自…殺…」
途中から嗚咽にかわった。
「なんだって!」
「遺書がファックスで……たまたま社長…が会社に行ったら…見つけて…」
しゃくりあげながら引き絞るように声を出す。
「責任を取るって。ウッ。きっと今回のことで思い詰めて」
「ばかな。あれはぼくが悪いんだ。だから、なんとかしたくて…」
そこまで言って、そんなことを話している状況ではないと気づき、病院名と場所を聞いた。武宮は途中の駅から電話してきたようだ。公衆電話の残り秒数を知らせる音が鳴った。
「ぼくもこれから向かうから」
そう言って返事を待たずに電話を切った。
明星病院までは一時間以内に着く。会社から十分ほどのはずだ。部屋のドアに手をかけて、ふと、作り終えたゲームのサンプルを持っていこうと思いたった。

病院の受付で病室をたずねると、急患だったこともあり調べずにすぐ教えてくれた。
三階の個室には名札が入っていなかった。ドアをそっとノックして開ける。西岡と武宮が立ったまま振り返り、静かにうなずいた。
「容態は?」
どちらにともなく、聞いた。
武宮がこたえる。
「一応、処置は済んだみたい。命に別状はないそうよ」
それを聞いて渡瀬は足首に激痛が走るのを覚えた。
社長は外へ出て話をしろとふたりに合図した。
渡瀬は眠っている牛溝の表情を確かめてから、そろりと外へ出た。
無事を確認できたことで渡瀬は血の気が引いた。病院へ着くまでずっと高ぶっていたのだ。
「だいじょうぶ? 渡瀬くん」
青ざめた表情をのぞきこみながら武宮が心配そうに聞く。
「うん、ホッとしたら急に疲れが出たみたい。おまけに足首も痛いし」
ふたりでソファに腰掛ける。
武宮も着いたばかりで、詳しいことは聞いていないという。
午前中に社長から電話があり、手伝いにきてくれと言われた。話を聞いてびっくりして、渡瀬には留守電にで社長の携帯電話の番号を入れたという。池袋の駅で何か必要なものがないかどうか社長に電話したところ、渡瀬からの連絡がないと知って、社長から自宅の番号を聞いたのだった。
「おれの責任で…」
渡瀬はポツッともらした。武宮は正面の壁を直視したまま言葉を絞り出した。
「それを言うんだったら、あたしにも責任はあるわ。資料を集めてるのはあたしだもん。最新版のソフトが出ていたのに見落としてしまったのは…」
武宮はいきなり両手で顔を覆った。
沈黙のなかで、ふたりは身動きがとれなかった。
靴音が響き、間もなく医師が看護婦をともない現れた。牛溝の病室に入る。渡瀬と武宮もつづいて様子をうかがう。看護婦はふたりを一瞥したが、外に出ろとは言わなかった。
医師は牛溝の手を取り脈を調べている。点滴の量を確認してから、西岡に向かい合った。
「もう心配はないでしょう。早い発見だったので胃の洗浄だけで、問題ありません。今夜一晩休めば、明日には退院できますよ。警察の方は何と?」
「事情は説明しました。本人からの聴取は後日出頭してということで、特に問題にすることはなさそうでした」
「そうですか、とにかく安静にさせてください」
西岡は礼を言って医師を見送る。
ドアが閉まる間ぎわ、看護婦は武宮に向かって、
「牛溝さんが目をさましたらボタンで知らせてね」
と、ニッコリした。
その笑顔で、渡瀬も武宮も救われる思いがした。西岡は、自分が今晩は付きそうからと、ふたりに帰るよう告げたものの、さすがに焦燥の色を隠せない。
武宮は残らせてほしいと言った。
渡瀬も同じ気持ちだという目を返した。
西岡はひとつうなずくと、一服してくると言って外に出た。

牛溝は静かに眠っている。折りたたみ椅子を開いて、ふたりは腰掛けた。静けさだけがきわだっている。生命はとりとめたものの、こうして牛溝の傍らにいると再び後悔の念がふたりを襲う。
一服を終えた西岡は、戻ってくると渡瀬が持っていたビニール袋を見て、差し入れか、と聞いた。渡瀬はすなおにゲームのサンプルだと答えた。家を出るときに、とっさに持ってきてしまったと話した。
西岡は表情を変えずに、見せてみろと言った。
ここで披露することに抵抗を感じるが、明日会社で企画書とともに説明するので見るだけにしてほしいと前置きし、袋から出した。
小さなテーブルに盤を置き、駒を十枚ほど取り出した。
西岡は少しの間眺めていたが、駒を手に取ると盤の上にひとつ置いた。渡瀬はだまって別の駒を接しておいた。西岡が考えている。武宮は興味深そうな表情を声に変えた。
「これ…ね」
ほんとうに企画があるかどうかと疑っていた調子ではなかった。
突然、静かな声が渡瀬を呼んだ。
声の主は牛溝だった。
「牛溝さん!」
渡瀬はなかば叫ぶように立ち上がった。西岡と武宮はベッドの脇にひしと寄り添う。
西岡は怒りたかった。武宮は大声で泣き出したかった。しかし、ふたりとも思いを態度に表せなかった。牛溝の次の言葉を待っていた。
渡瀬は頭を下げたまま、あふれだした涙をぬぐうことができない。
「助かっちゃったみたいですね。社長、ご迷惑を…」
そんなことはどうでもいい、と西岡は首を左右にふりながら口元だけかろうじて笑みをつくろう。しかし、そこで一気に涙顔に変わる。堰を切ったように三人ともこらえながら泣いた。
武宮は気をとりなおすと看護婦に言われたとおり、ナースセンターへつながる呼び出しボタンを押す。
牛溝は渡瀬に話しかける。
「渡瀬、やったな。いい感じだ」
ベッドの上から見ていたのだろう。牛溝はすでにポイントを理解しているようだ。ルールまではわからないにしろ、クリエイターの直感というものだろう。
お世辞じゃないことは渡瀬にはすぐにわかった。初めてほめられた。
渡瀬はゆっくり深く頭を下げ、
「ありがとうございます」
と、かすれた声で礼を返した。

翌日、西岡の言うことも聞かずに牛溝は午後から出社した。ダメな後輩が気がかりだからと、ふだんの毒舌が渡瀬や武宮を安心させた。
渡瀬はさっそくゲーム企画の詳細を説明する。そのあと紙のサンプルを使って全員でテストプレイに興じる。
西岡がうなる。
「おまえ、こんなものをいままで隠していたのか?」
「そ、そんな、隠していただなんて」
休みに入ってから作りはじめたとは言いづらい。すでに企画があると宣言していたからだ。
「ねえ、これって、四人でも遊べるんじゃないかしら」
武宮がいきなりそう言った。
「三人でもね」
牛溝がつづけた。
「四人のペア・マッチなんてのもあるかもしれんな」
西岡が満足そうな笑みをたたえて言う。
渡瀬はうれしかった。おもしろいと自分では確信をもっていたが、客観的に言われてみると根拠のなかった不安も吹き飛んでしまう。ほんとうに、うれしかった。ただ、それにもまして、牛溝がやる気になってくれていることが、渡瀬には言い難い喜びだった。
「しかし、手作りとはいえ、もうちょっとましなサンプルをつくれよ、渡瀬」
西岡は薄い紙の駒を持ちづらそうにして言う。もちろん本気で非難しているわけではない。
「武宮、新しいサンプルづくりを手伝え。そうだな、木とかコルクとか、とにかくクライアン トに見せられるものを。金は多少かかってもかまわん」
ゴールデンウィーク前の沈滞したムードとは打って変わり、これまでにない活気が社内にあふれた。

期限は一週間である。
クライアントのNEKOへのプレゼンテーションは、渡瀬を中心に行うことになった。
それまでに、残された課題である駒の配布方法を考えなければならない。もちろん、それは原案者である渡瀬の仕事である。
企画書は牛溝が手を加える。
西岡はというと、情報網を使って、過去に似たようなパズル・ゲームがあるかどうかを徹底的に調べることにした。
社の全員がひとつの企画に向かって動き出した。
渡瀬は、この会社に就職できてよかったとしみじみ感じていた。


☆言葉

駒の配布については、カード形式にすることにした。それぞれの駒に数字を充てて、五十四種類の配布カードをつくった。
バランスをとるのがいちばん難しい。ゲームを終えた時点で、盤にスペースが残りすぎてもいけないし、逆に駒が残りすぎてもいけない。駒が残るか残らないかの微妙なバランスも、このゲームのクオリティにつながるのだ。もちろん二人プレイから四人プレイまで同じカードを使える工夫は忘れなかった。
週末は全体のデザインを洗練する時間に充てようと渡瀬は張り切っていた。

金曜の夕方まで、あっという間だった。退社時間が近づくと、武宮が渡瀬に声をかけた。渡瀬にいっしょに帰ろうと言う。道々、ゲーム盤のことで聞きたいこともあるからと言う。それなら今聞いてくれればいいのにとも思ったが、帰り支度を済ませて立っている武宮を見て承諾した。もう少し会社に残るつもりでいたが、家でやれないこともないと思い直した。
事務所を出ると、武宮は飲める店で相談しようかと言う。渡瀬はためらいながら、それなら喫茶店にしたいと申し出た。前回の繰り返しになるくらいなら、ゲームデザインを検討する時間の方が惜しい。喫茶店の提案に武宮はすなおに応じた。
所沢駅への途中に商店街がある。通り沿いにも喫茶店は何軒かあるが、武宮は路地に入って洒落た店を選んだ。
店内に客は誰もいなかった。夕食時という時間帯と、路地裏という目立たない場所のせいかもしれない。
武宮はレモンティを注文した。渡瀬はカフェオレを頼んだ。
用件を早めに片づけたい渡瀬から切り出した。
「サンプル盤で何か問題でも?」
「あ、うん。そうじゃないの。問題ないわ」
「じゃ、用は何?」
「飲み物が来てからでもいいでしょ?」
別にかまわないが、何で待つ必要があるのか渡瀬は理解に苦しむ。
注文したドリンクがいっしょに運ばれてきた。
「渡瀬くん。ほら、この容器かわいいでしょ?」
確かに、かわいいというより洒落ていた。中世ヨーロッパ美術を彷彿とさせる天使の彫り物が施されている。カフェオレのカップも飾り物にしたいような彩りである。
本題からそれないようにと、渡瀬はひとつ咳払いする。
「悪いけど、武宮さん、仕事以外の話ならまた今度にしてくれない?」
武宮は、渡瀬の目をじっと見つめてから、口をキュッと結んだ。
「いや、ちょっとデザインの確認をしたいんだ。だから、今度の仕事が片づいたらゆっくり聞くよ」
武宮はめったに怒らない。しかし、怒らせると手に負えない。一度だけ社長とやりあう場面があり、そのときに軍配が上がったのは武宮の方だった。発端は社長のセクハラまがいの言動にあったということもあるが……。渡瀬は上目づかいにちらっと武宮を見る。
「いいけど、一言だけ聞いて」
「あ、もちろん」
間髪置かずに答えた。武宮はすこし上気しているように見える。
「この間、池袋で渡瀬くんに会ったのは偶然だと思う?」
「え?」
「だから、待ち合わせしてたって言ったでしょ……あのこと」
「ああ、キャンセルになったってこと? それが?」
武宮は表情を曇らせると、ほとんど飲み残したまま席を立った。
「それだけ。もう行きましょ」
「あ、ちょっと待ってよ。何のこと?」
渡瀬を置き去りにする勢いで武宮は席を立つ。
急かされるように勘定を済ませ店を出ると、武宮はお先にと言って小走りに行ってしまった。
(何を怒ってるんだろう。わけのわからないこと言って。おまけに俺のおごりかよ)
渡瀬は武宮の後ろ姿を目で追いながら舌打ちした。今は、とにかく頭の中をデザインのことでいっぱいにしたかった。
「ま、いいか」
渡瀬は暗くなりはじめた街路をひとり歩き出した。痛みは遠のいたものの、捻挫した足首が一瞬疼いた。

ひさしぶりにゆったりとした気分で週末を迎えた。
土曜日は一日配布カードを洗い直した。完璧とはいえないだろうが、満足いくものにできあがったと思う。月曜に牛溝にわたせば企画書にも間にあう。
これで明日は実家に帰れると思い、渡瀬は母親に電話をしようとした。ちょうどそのとき玄関のチャイムが鳴った。
(誰だろう?)
新聞の勧誘か何かだろうと、ドア越しにたずねる。
「まさき。おかあさん」
実家にいるはずの母親だった。虚をつかれた気分で、ドアチェーンを外しながら不平を言う子どもの口ぶりになる。
「来るんだったら電話してくれりゃいいのに」
母親の冴子は部屋を見回しながら上がり込む。
「駅まで迎えに行ったのに」
冴子は小さなダイニングテーブルの椅子に、<よいしょっ>と腰掛ける。
「聞いてよ、まさき」
座るやいなや不満顔で話し出す。
「おとうさんったらすぐに行ってこいって。土曜日に帰るって言ってたのに、来ないじゃないかって怒るのよ。忙しいのに会社をわざわざ休んだんだって。きっと急用ができた のよ、って言ったら。冗談じゃない、おれだって急用があったんだ。おまえがたまには居てくれというから、いたのになんだ、ってね。そんなに気になるんだったら、自分で電話くらいできるでしょ、って言ったら怒っちゃって。いますぐ行ってこいって。だから来ちゃった」
冴子の長話の間に、散らかっていた部屋を片づける。
「おれ、今日帰るって言ったっけ。週末には帰るからとは言った記憶があるけど」
「あたしが土曜には帰るそうよ、って言ったらしいの。よく憶えてないけど」
「今、ちょうど電話しようと思ってたところだったんだ。びっくりしたよ」
「じゃ、おとうさんにしてよ。おかあさん、いま話したくないから」
「ええー、親父にか? やだよ、おかあさんしなよ」
「なによ、父親に電話くらいできるでしょ。もう、どっちもどっちなんだから」
冴子はふくれっ面をする。歳のわりには子どもっぽいところがある。
結局、冴子が電話を入れた。明日いっしょに帰るからと伝えた。
1DKの狭い部屋だが、六畳間にパソコンデスクと書棚だけなので、なんとかふたり寝られるスペースはあった。客布団も引っ越すときに一組み買ってくれたのが、一度も 使わず押入れにしまったままだった。
外に出るのが面倒だからと、店屋物を夕食にした。
渡瀬が会社の話をしたり、冴子が近所の話をしたり、とりとめもない話で時間は過ぎていった。先に冴子が布団に入る。
渡瀬はチャンネルを替え、スポーツニュースを見はじめる。冴子が唐突にたずねた。
「まさき。おかあさんたち別れてもいい?」
渡瀬は心臓が飛び出るくらい驚いた。
「なんだって! どうして?」
テレビの音量をあわてて下げる。
しばらく目を閉じて考え込むようにしたあと、冴子は口を開く。
「あなたも独立したし、おとうさんも仕事ばかりで家にほとんどいないし。あたしの役割も 終わったんじゃないかってね」
「何を言ってるんだよ、まったく」
手元にあったタバコを一本抜き、火を点けながら言った。
「それにね、あたしが居るとあなたたちの距離がますます遠くなるんじゃないかって気がしてね」
「それはずるいよ、おかあさん。人のせいにしないでよ」
「だって、今日だってそうじゃない」
そう言って、冴子はそれまで天井を見つめていた目を息子に向ける。
「おれは、ただ、話しづらいだけだよ」
「なにが話しづらいの? 男同士でしょ?」
「これだけ年齢差があれば、いくら男同士だって話が合わないしさ」
「あ、そっ。世代の断絶ってわけ? どうでもいいけどタバコ消して。臭いわ」
「ああ、悪い悪い」
冴子のタバコ嫌いをうっかりしていた。灰皿でもみ消して、さらに飲み残しのビールをかけながら渡瀬は言った。
「いや、そんなにおおげさなことじゃないけどさ」
冴子の強い調子に気圧されるように声を落とした。
「まったく、おかあさんだけ疲れちゃうわ」
「たまには外に出るようにしたら? 仕事でもいいし、趣味でもいいから。家に閉じこもっているからじゃないの?」
「あら、気をつかってくれてありがと。でも、そんなことおとうさんが許さないの知ってるでしょ」
「でも、別れる覚悟があるんだったら、そのくらいのこと言ってもいいんじゃない?」
「もう、いいわよ。寝るね、おやすみ。あなたも早く寝なさいよ」
冴子は身をひるがえすように背を向けて、ひとつ大きく息を吐いた。
「はいはい。おやすみ」
渡瀬は布団に入ってからもしばらく寝つけないまま、いろいろなことを考えていた。仕事のこと、家族のこと、小さいころから今に至るまでの家庭の風景。寝息を立てはじめた母親の横顔をちらっと見て、毛布を頭まで引きかぶった。

翌日、朝早くアパートを出た。先週冴子と約束していた買い物を済ませて、早めに実家に戻るためである。父親のことだから朝食抜きで待っているに違いない。渡瀬の記憶の中で、一度も父親が料理をしている姿はなかった。
JR京葉線の浦安駅からバスで十五分ほど揺られる。新興住宅の街並みは久しぶりである。街路樹の緑が強い陽ざしを受けて色濃くしている。
実家に着くと、テーブルの上に店屋物のざるそばが積まれていた。昼前であるが、父親の一樹がすでに頼んでおいたのだ。
「ただいま」
渡瀬は自分のその言葉になつかしさを覚える。冴子は無言でテーブルの席につく。
(昨晩の話は、まんざらうそではなさそうだな)
冴子の気配にとまどいながら、渡瀬は隣に座る。奥の部屋の襖が開き、日に焼けた大きな顔がのぞいた。
「おお、遅かったじゃないか」
一樹は冴子に視線をあててそう言う。息子にはきちんと目を合わさない。やはり朝食を抜いていたのか、いきなり乾きはじめたそばに手をかける。渡瀬と冴子も同調して食べはじめた。
ずるずると大きな音をたて、口にそばを入れたまま一樹が言う。
「まさき、どうだ会社の方は?」
冴子には、失敗したことや自殺騒ぎのあったことなど、会社が危ないということ以外はすべて話した。ここで詳しく話すこともないと渡瀬は思う。いずれ冴子から事の顛末を聞くだろう。
「どうにか、うまく行きそう、かな」
「そうか」
「あ、昨日来れなくてごめん。会社を休んでくれたみたいで」
「ああ、たまには休まないと、若いのが育たんからな」
ずいぶん違うわね、と言いたげに冴子が横で肩をすぼめた。
なんだこいつ、と言わんばかりに一樹が冴子を睨みつける。渡瀬はあわてて話題を変えた。
「おとうさんのマックは調子どう?」
一樹は席を立って冷蔵庫からビールを取り出した。栓を開けると渡瀬にもどうだ、というふうにあごを突き出した。
父親と酒を酌み交わすのは、二十歳の誕生日以来初めてだった。渡瀬は勝手知ったる家の戸棚からグラスを三個取り上げる。一樹からビールをついでもらうと、渡瀬はビール瓶を受け取り返杯した。それから、母親にも勧める。黙っている冴子のグラスを一樹が取り、半分ほど注いだところで冴子の前に差し出した。
「そういえば、おまえのマックはどうだ?」
一樹がようやく答えた。
「そりゃ、快適だよ。なにせパワーマックだから」
「そんなに違うか、おれのと」
「十倍くらいかな」
「うそつけ」
こんなに家族的な会話をしたのは、いつのことだったろう。ここ数年を思い返してみるが渡瀬の記憶にはない。
冴子はずっと黙って聞いている。
「おれ、アパートを借りてよかったと思う」
昨晩の冴子との話を意識している自分を、渡瀬は感じていた。
「そうか」
「自分しかいないって思うと、やっぱりがんばらなきゃ、ってさ。なんていうか、自立していくってこういうことかなって」
「なまいきになったな」
半分照れくさそうに一樹は応じる。
そこで突然冴子が口を開いた。
「子どもは自立していくのに、おとなでも自立していない人がいるのよね」
渡瀬は、
(ああ、やってしまった)
と思わず目をつぶる。案の定、一樹が反撃に出る。
「それは俺のことを言っているのか?」
「別に、誰ってわけじゃないですよ」
冴子は無視するように箸を動かす。
「まさきが帰ってきたのに、何を突っかかってるんだ!」
渡瀬は長年育ったこの家で自分の知らない家庭生活があることに、いまさらながら気づく。家を出てからのことはほとんど知ろうとしなかった。そう思うといたたまれなかっ た。
父親も母親もそれきり黙ってしまった。
「おれ、ここに戻ったほうがいいのかなあ」
渡瀬はどちらに言うでもなく、そう質問した。
「あなたが気にすることじゃないわよ」
冴子がこたえた。
「夫婦喧嘩なんてな、世の中にゃいくらでもあるんだ」
一樹もそうこたえた。
渡瀬は自分のゲーム企画の話をしようかと迷った。雨の休日、親子みんなで楽しめる、そんなゲームをつくりたい。そこを出発点にしてできあがったゲームであるというこ とを。しかし、まだ企画が通ったわけじゃない。商品化されるかどうかもわからない。もしこのゲームが世に出て評判になったら、素直に話せると思っている。それまでは、誰にも話さないでおこうと心に決めている。
それはさておき、親の不仲を子どもが仲立ちできるかというと、それはきっと子どもの思い上がりだろう。夫婦とはある絆で結ばれた<他人>同士である。子どもの知らない世界で知り合い、ふたりの歴史を歩んできた。その中に介入する術はないように思える。子どもも、ある意味、<血のつながった他人>であると言えるのだ。
(それより問題はコミュニケーションの不足なのかもしれない)
両親を見ると渡瀬にはそう思える。母親が言った世代の断絶もそうだろう。よくわからない政治や国際関係もそうなのではないか。
なにもかもがコミュケーションの不足から発生しているような気がしてくる。もちろん言葉だけじゃない、同じ時間、同じ空間を共有することが少ないことも関係している。ゲームを仲介にして、いっしょに楽しむこともひとつのコミュニケーションであると思う。
残念なのは、言葉のすれ違いだ。あいまいな表現が先入観や誤解を生む。軽い気持 の表現が恨みを買う。文化の違いが翻訳を誤らせる。その誤訳が口伝えで大きな国際問題になる。うわさや流言飛語が差別を生む。
それでも、言葉は必要なのだ。互いを認め合うことができる最強の道具なのだから。
渡瀬は武宮の<偶然じゃない>という言葉を突如思い出した。無視しようとしたその言葉の意味を理解しなければいけないと思った。ただ、いまは家族のことが優先である。
気持ちを切り替え、考えついたことを提案する。
「仕事がうまくいったらボーナスをはずんでくれるらしいんだ。もしそうなったら、みんなで温泉にでも行こうよ」
「あら、旅行なんて何年ぶりかしら」
冴子はあっけらかんとして、もう行くつもりになっている。
「おまえのボーナスなんてあてにしてたら、せいぜい山小屋一泊でおしまいだろう」
一樹はそう言って高を括る。
「おとうさんより多かったらどうする?」
「ばか言ってんじゃないよ。年季がちがうよ」
「あら、今はソフト屋さんがいちばん景気はいいって言うわよねえ」
どこで仕入れたネタなのか、いい加減な噂を信じて冴子は言う。
「うちの会社は、まだまだだけどね」
渡瀬は逆らわずに、単に否定した。
「どこの業界も一部大手だけだよ、儲かってるのは」
一樹はグラスに残ったビールを一気に飲み干し、またついだ。
「おとうさんの会社は?」
息子に勤めのことを初めて聞かれて、一樹は一瞬躊躇した。
「ああ、けっこう厳しいな」
「あら、そんなこと、初めて聞いたわ」
ほんとうに初めてなのだろう、冴子は目を丸くしている。
「会社がたいへんだなんて、いちいち家族に言ってられるか」
「そんなもんですか」
「ほらほら、またあ。孫ができてもけんかばかりじゃ、やだぜ」
「ほう、おまえもう決めた女の子でもいるのか?」
こういうとき、世の父親はきまって<親父>らしさを醸し出す。急にくだけた表情になる。
「なに言ってるんだよ。まだそんなのいるわけないじゃないか。仕事優先だよ」
武宮の顔が浮かんで消えた。
「まあね、あの部屋のようすじゃ、まだまだよね」
冴子のひょうきんな調子に、一樹は傾けていたビールでむせた。
渡瀬は、母親の冴子がクスッと笑うのを見て少しホッとした。

夕食は車で出かけて、郊外のレストランに行った。父親の会社の関連で割引がきくというので、思いきり高い料理を頼んだ。冴子も久しぶりの外での食事のせいか、すこしはしゃいでいるような気配だった。
食事のあと、渡瀬は実家には戻らず駅まで送ってもらった。帰りぎわ、冴子に月に一度は必ず帰るからと言って別れを告げた。一樹はハンドルをつかんだまま片手をあげ た。夜の闇にテールランプが飲みこまれるまで見送った。
地下鉄は夜の上り線だけにがらがらだった。渡瀬は電車に揺られながら両親の会話を思い出していた。最後に思い出し笑いで吹いてしまった。


☆判決

プレゼンテーションは、西岡と牛溝と渡瀬の三人で出向いた。
教育ソフトもゲームソフトも担当部署は同じフロアにある。それぞれの担当者が違うだけである。前回は会議室での応対だったが、今回は狭い打ち合わせコーナーでのプレゼンとなった。思いたくはないが、やはり前回の失敗が影響しているのだろう。
現れた担当者も肩書きのないヒラ社員だった。
名刺交換のあと、社長の西岡が社の概要を説明し、牛溝と渡瀬の役割を紹介した。牛溝が企画書に沿ってひととおりの解説をした。
では、実際にサンプルを使って遊んでみましょう、ということになった。そこから渡瀬にバトンタッチする。
もう一度、サンプル盤の上で具体的に方法やルールを説明し、実際にゲームをしながらポイントを解説した。 一回が終了したところで担当者が口を開いた。
「これ、おもしろいですよ」
ちょっと待っていてほしいと、その担当者が連れてきたのはベテランの開発プロデューサーだった。サンプル盤を見た瞬間、彼は言った。
「いけそうですねえ」
プロデューサーも入って、四人プレイで遊ぶ。途中から、プロデューサーはウンウンうなりだした。しきりに何かつぶやいている。ゲームが終わり、西岡は担当のふたりに感想をたずねた。
「難しいゲームですねえ。いや、とってもわかりやすいのにね」
プロデューサーが答えた。若い担当者がつづけて言う。
「ほんとうに奥が深いって感じですね。どなたが考えられたんですか?」
牛溝は渡瀬を指しながら、原案者ですと紹介した。
担当者とプロデューサーは、同時に「ほう」と声を上げた。きっと、こんなに若いとは思わなかったのだろう。
話は早かった。さっそく二週間後の全社会議に提案すると言ってくれたのだ。
NEKOを出た三人は握手を交わした。大成功と言っていいだろう。西岡はこんなにスムーズにプレゼンができたのは初めてだと渡瀬をほめた。
「これで、渡瀬もクリエイターの仲間だな」
牛溝は自分のことのように喜んでくれた。
渡瀬は満面の笑みを浮かべる。まだ、しかし決まったわけではないので浮かれてばかりはいられない。

判決を待つ被告人のように、緊迫感に包まれたまま二週間が過ぎた。
いよいよプレゼンの結果が出るその日、電話が鳴るたびにビクッとしていたのは渡瀬だけではないだろう。電話を受ける武宮に牛溝の視線も注がれる。武宮もそれを承知しているので、受けてすぐに他からの電話は首を横に振って違うと知らせてくれた。
夕方になってやっとNEKOの若い担当者から電話が入った。武宮は西岡につなぐ。話の内容はわからないが西岡の返事がときおり聞こえる。
電話が切れた。
西岡は牛溝たちの部屋へ足を運ぶ。うつむいている。おもむろに顔を上げて、ひとりひとりの顔を見る。西岡のぼんやりした表情に渡瀬は肩を落としかけた。
西岡は深く息を吸い込むと一拍おいた。
「やったぞ! 合格だ!」
「オー!」
思わずみんな拳を振り上げていた。武宮はバンザイをしている。
「よおし、いまから祝賀会だ」
酒好きなだけに、こんな機会は西岡にとって最高の舞台となる。


☆相合い傘

祝賀会場は所沢駅近くの小料理屋になった。個室の座敷はちょうど人数に合った広さである。
西岡は奮発していちばん高いコース料理を人数分注文した。
ビールの乾杯で始まる。
武宮も今日だけは特別と言ってビールを受けた。
NEKOについての四方山話でまず盛り上がる。教育ソフト担当課長の悪口がいちばん長かった。西岡はふだんとは別人のようにおどけて話す。
「これからも長いおつき合いをと思ってるから、今回はおことわりしてるんですよ」
身振りも交えて口まねをしては、牛溝とゲラゲラ笑い合う。
牛溝はというと不幸な事件を起こしたことさえ、いまや笑い話にしてしまっていた。
「ちょっとね、失恋の痛手というならカッコイイんだけどね。いや、あの時、ちょうど借金もふくらんじゃってさ。もう、破産宣告して夜逃げでもすりゃ良かったかなあ。あれからビデオはやめたんだけどね」
アダルトビデオのファンだということは、みんなうすうす勘づいていたから、もう大爆笑である。
それにしても、と西岡は渡瀬に酒をつぎながら言う。
「よく、考えついたなあ。やっぱり、おれの教えかたがよかったか?」
学校でのことを言っている。
「いや、先生の講義はあまり聞いてなかったんですよ」
渡瀬はつい先生と言ってしまった。
「それがよかったのかもね」
武宮が小気味よく合いの手を入れる。
「おやおや、息が合うね、きみたち。何か隠してない?」
西岡はもうすでにできあがっているようだ。遠慮がなくなっている。
渡瀬も武宮も口をにごした。
「お、ますます怪しいなあ」
「社長、あんまりいじめないでくださいよ。武宮さん、いろいろ悩んでいるみたいだし、彼氏のことで」
渡瀬はいい加減なことをつい口に出してしまった。
「何を言ってるの、渡瀬くん。人のことより自分のこと心配したほうがいいんじゃないの?」
「何? 自分のことって」
「いいからいいから、ふたりともムキになるなって」
割って入ったのは牛溝だった。
「恋はするもの、愛は育むもの、ってね。どちらにしても、まだまだきみたちの年代じゃ、くっついて離れての繰り返しなんだから」
牛溝も相当酒が入っているようだ。ふだんのブラック・ジョークに耳慣れていると、たまに真面目なことを言われてもピンとこない。それどころか皮肉にさえ聞こえてしまう。
武宮は思いきり牛溝をにらみつけていた。
「ああ、そうですか。牛溝さんってオジサンだったんですね」
西岡だけは、ずっと笑いつづけたままだ。牛溝もあまり真剣に話すつもりはなさそうである。オジサンと言われて、ただ笑うのみだった。
酒宴はよた話がつづいた。
渡瀬は武宮の顔色をときどき注意して見ていた。武宮の酔いつぶれた姿を唯一目撃しているからだった。そろそろ危ないと感じていた。どうせ社長と牛溝はハシゴすることになる。この辺りで武宮を連れ出して帰ろうと決めた。
「社長、すみません。そろそろ失礼しようと思うんですが。ねえ、武宮さんも遅くなるよ」
「おお、そうか。そうだな、若人は若人と。な、牛溝くん、もう一軒いくか?」
「そうですね、そうしましょう。おじさんはおじさん同士で」
武宮はまだすねているようすだった。渡瀬は内心めんどうな気もしていたが、途中まで送らないとまずいと感じている。駅のベンチで寝ている武宮を想像したくなかった。

店を出るとふた手に別れた。小雨がぱらつき始めていた。
傘もささず肩を組んで行く西岡と牛溝の背中を見送りながら、渡瀬は武宮に聞いた。
「けっこう飲んだ?」
武宮の目は充血していた。酒のせいなのか怒っているからなのかは判断できなかった。
「だいじょうぶ。この間みたいなことにはならないから」
そう言いながらも、足にはすこしきているようだった。渡瀬は喫茶店に誘った。
「あと三十分くらいならだいじょうぶだよね? ちょっと酔い覚まししていこうよ」
武宮は拒まなかった。
渡瀬は通りに面したビルの二階にある喫茶店に入った。
夜でも制服のままの高校生たちが店内でざわついている。いまどき珍しくもなんともない風景だ。
注文を済ませると、渡瀬は向かい合った武宮に視線を戻す。目は閉じているが、まだ眠ってはいないようだ。武宮を見ていてペンディングにしていたことを思い出した。あの<偶然じゃない>という言葉の意味だった。ひょっとしたら、と都合よく解釈することもでき る。しかし、あとで笑われることになるのはごめんだ。
あのとき、武宮は<ボーイフレンド>との約束をすっぽかされたのだと思った。でも、彼 女はボーイフレンドという言葉は使っていなかった。単に<友だち>と言った気がする。 よくは思い出せないが、自分でボーイフレンドという言葉に置き換えてしまったのではないか。
そして、都合よく彼女に利用されているような気がしていた。
自分自身の気持ちはどうなんだろう、と渡瀬は考えてみる。
武宮にボーイフレンドがいると思ったときに嫉妬しなかったか?
彼女の肉体の感触にドキドキしたのは、単に男の本能のしわざだったのか? 同僚という観点で<女>という意識を持たないようにしてはいなかったか?
(すなおな自分の気持ちはどうなんだろう。いま目の前にいる女性は、自分にとって ……)
窓の外で雨が強くなり始めていた。下に見える通りをひと組の若い男女が相合い傘で通り過ぎて行く。
ざわついていた高校生たちが一斉に店を出た。初めて店内のBGMが、あの『四季』を奏でていることに気づいた。
武宮の閉じていた目がゆっくりと開いた。
「渡瀬くん。仕事が一段落したら話を聞いてくれるって言ったわよね。あれからもう三週間になるけど、おぼえてる?」
渡瀬の頭のなかで、ここ一カ月の武宮と自分との言動がめまぐるしくかけ抜けていっ た。渡瀬は武宮を正視してこたえた。
「もちろんさ。それより、聞いてくれないか? 最初にぼくの話」
「なに? 手短にしてね。時間がないから」
「ああ、かんたんさ。ここに君の名前を書いてくれないか?」
渡瀬は一筆書きパズルの解答を描いたページを手帳から破り取り、武宮に差し出した。九つの○を通る四本の直線は、子供時代のあの相合い傘を描いていた。
武宮はその解答を見せられ大きくひとつうなずくと、クスッと肩を縮めて言った。
「ねえ、その前に、出題者のサインがいるんじゃない?」


☆おわり

他の小説を読む→こちら


HOMEへこの頁のtopへGAJINワールドTOP


(C)1997- GU/GAJIN All rights reserved.