純文学小説



「海岸通り」の待合室 1997.8 我人・作

●あらすじ

 幼なじみの男女が年頃になり、気づくと特別な感情を抱いていた。しかし、素直に表現できないまま地方と都会に離れ住む。男は都会で仕事に没頭し、飲み屋で出会った女性(有香)と同棲を始める。ある日、東京駅構内で幼なじみによく似た女性を見かける。そして驚いたことに、彼女は同級生であり親友でもある男(八津)の恋人だった。有香の誕生日祝いに同席した彼女を見て、有香の態度が急変する・・・


1.同棲
2.GO TO JAIL
3.旧友
4.胸のつかえ
5.玲子
6.誕生パーティ
7.故郷
8.手紙
9.海岸通り


<同棲>

容赦のない光線が海辺のアスファルトを焦がしている。
砂まじりの海風が防砂林をたたき、乾いた音をたてて砕け散ってゆく。
人影のない古びたバス停。
傍らで頑固にたたずむ道祖神。
潮の強い匂い。
砂に埋もれた地引き網。

セピア色の景色が、ゆらいで消える……

見つめていた天井から目を落とすと、静かにベッドがきしんだ。ふたりを包んでいた毛布から勢いよく顔を出した有香が、睫毛をすり合わせるように目を細めながら壁時計を見て言った。
「もう起きたの? 早すぎるー、あきら」
大きく伸びをしたかと思うと、そのまま寝返りをうち露な背中を晃に見せつける。かすかに浮かぶ脊椎の波がなまめかしい。軽くウェーブのかかった栗色のロングヘアは、美的センスを感じさせる。
晃は手をのばし、窓のサッシを少しだけ開いた。部屋は一瞬にして光と影の牢獄になる。
「GO TO JAIL」
晃は信者のような呟きで、毎朝この言葉を唱える。そしてナイトテーブルからサイコロ二個をつかみ、両脚の間の毛布の窪みに放り投げた。三と四の目。フッと鼻息で嘲笑い、おもむろに晃はベッドを離れた。

新橋にあるT出版の第二編集部は、珍しく昼前から騒がしい。
晃が仕事をもらっているデスクの森山はすでに席にいた。森山は晃に気がつくと、のっそりと手を差しあげた。
「よお、来たか」
スポーツ紙を読みながら、振り下ろした手がそのまま鼻毛を抜き始める。晃は雑然と整理?された物の間を、もの慣れた足取りですり抜け、B4判大の社用封筒を森山の机に放り投げてから言った。
「お早うっす。資料戻しときますね。原稿はメールで確認してもらえました?」
森山は「おお」と言ったきり反応がない。
「ところで日曜の重賞レース、馬券決まりました?」
隣の椅子を勝手に引き寄せて馬乗りに座る。森山は新聞から目を離さずに応えた。
「競馬どころじゃねーのさ。昨日の事件でてんやわんや、見りゃわかるだろ?」
そう言いながら鼻毛を空中で振り落とすように、右手をもみながら頭の上でぐるぐるまわす。
記事資料を返却したその足で大井競馬場まで行こうと思っていた晃も、見なれない喧噪のわけは知りたかった。昨日も一日中部屋にこもって原稿書きをしていた。ニュースも見ていない。締め切り間ぎわの数日間は、自身をタコ部屋状態にして作業することにしている。
「何ですか、その事件って?」
「なんだ、知らないのか。とうとうその日が来たってわけさ」
「惑星衝突とか?」
森山のいつもの大袈裟な物言いに、軽く応酬をする。
「まだその方がスッキリするかもな」
「じれったいなあ、いったい何ですか?」
「物書きが新聞も読まねーようじゃ、世の中おしまいだなあ」
やっとスポーツ紙から目を離すと、森山は机の上に折りたたまれた読朝新聞をバンバンと叩いた。
「大銀行がおしゃかだ」
睡眠不足でなければ道すがらとっくに気づいていただろう。朝刊の一面にデカデカと「日本アジア銀行破綻」の文字が刷られている。晃は経済に強いわけではないが、さすがに大手の一角である巨大銀行破綻の意味くらいは察しがつく。近年の不景気は中小企業の倒産や大企業の合併を余儀なくさせていた。経済界は体力の勝負と噂されている。真綿で首を絞められるように経済情勢は下降線をたどり、TKOで降参することすらできないでいる。まさに日本経済にとっては惑星衝突の方がよほどあきらめがつくのかもしれない。
「パスポートを申請しておいた方がいいですかね?」
「ああ、南の島なら食う心配はないしな」
「くわばらくわばら」
晃のような一介の市民にとっては、国家の一大事だと言われても、現実的な危機感は薄い。
森山は、これ以上話してもムダだと感じたのか、思い出したように話題を変える。
「そうそう、前回の原稿料だけどさ、ちょっと遅れるわ」
「ええ? まさか、ここも倒産寸前なんて言わないでくださいよ」
「わるい。じつは経理に出すの忘れてた」
率直さが森山のいいところだが、そのガサツさが恨めしい。
「軽く言いますねえ。こっちは生活かかってんだから」
「ま、競馬を一回休めばなんてことないだろ?」
これから行こうとしていたことを見透かされたようで、舌打ちしたくなる。
「冗談じゃないっすよ」
「来週さ、ほら、前におまえのお気に入りの娘がいた例の店、おごるからさ。かんべん」
しかし、晃はその交換条件を断った。たしかにその時、気に入った女性がいた。そして今、その女性と同棲しているのだ。森山はそのことを知らない。
晃は、代わりに第一編集部で制作している旅行雑誌の編集者を紹介してほしいと言った。森山からもらう仕事はデータ収集がメインの情報企画特集の連載である。ギャラはまあまあなのだが、仕事としては地味でけっしておもしろいものではない。有香が旅行代理店に勤めていることもあり、旅行関係の記事にもチャレンジしてみたかったのだ。
森山は今の仕事を優先するなら、という条件つきで承諾してくれた。帰ろうとする晃を呼びとめて、森山は平然として言う。
「競馬場に着いたらさあ、電話くれよ」
「一回休めと言ったのはどこの誰でしたっけ?」
「わかったわかった。今度ギャラが入ったら携帯電話くらい持てよ。いつでも捕まえられるようにな」
「それが怖くて持てないんですよ」
苦虫を噛み潰したような顔をする森山にウインクをして、編集部のドアを閉めた。

来週入るはずのギャラが遅れるということで、晃はこの後の競馬場行きをあきらめようと思った。負ける気はいつもしないのだが、結果的には負けがこんでいる。有香との約束のバースデイ・プレゼントのこともあり、今回はおとなしくしようかと思う。だが、足は勝手にいつもの道を進んで行く。T出版の近くにある場外馬券売り場を素通りできずに、結局、日曜の重賞レースに三千円だけつぎこんだ。
時間が空いたので本屋をぶらつくことにした。東京駅に隣接した八重洲ブックセンターに立ち寄る。旅行雑誌の担当者と会う前に、その雑誌を含めいくつか最新号に目を通しておかなければならない。ひとつでも新企画を携えて会う必要がある。有香にも相談に乗ってもらうつもりだった。
雑誌を数冊買って東京駅の中央線ホームに向かう。昼どきのせいか、東京駅構内にしては人通りが少なく感じられた。 正面から歩いてくる赤いスーツの女性に、ふと目が止まる。長い黒髪が印象的だ。スリムなスタイルとファッションに気を取られながらすれ違う。
その瞬間、胸が激しく波打った。すれ違いざまに見た横顔は、なつかしい故郷の人にそっくりなのだ。思わず足を止め振り返る。しかしその女性は動揺のかけらも見せずに歩き去っていった。
「他人の空似か…」

吉祥寺の駅に降り立つまで、晃はセピア色の故郷を思い浮かべていた。

自宅のマンションに戻ると、有香から伝言が入っていた。今夜は急に千葉の実家に帰るということだった。
有香は、親には同棲していることを秘密にしていた。ただ、友人と同居しているとは伝えていた。たまに遊びに来るナナという女性を同居人に仕立てている。ナナは以前アルバイトをしていたパブの同僚で仲がいい。部屋の内外で撮したふたりの写真を実家に見せているのだ。もちろん男物が見えないアングルを使う。ご丁寧に玄関の写真は表札が見えるように撮した。 表札は「屋敷」と「伊豆沢」の連名になっている。晃の姓は「屋敷」で、有香は「伊豆沢」だからウソではない。有香の企みで、ナナは「屋敷ナナ」という架空の人物になっているのだ。電話を別々の回線にしていることで、そのトリックは一応成り立っていた。しかも親が心配して棲みかを訪ねてくる気配はない。有香は自分がひんぱんに実家に帰ることでうまくはぐらかしているからだ。仕事がら週末はツアーにアテンドすることがよくあり、ウイーク・デイの休日に里帰りすることが多い。週に一度帰っていたので、親もそう心配はしていないようだ。幸いにといってはバチがあたるが、有香の母親は心臓を患っており、あまり外出できない状態にある。
晃はというと、やはり実家には同棲していることを隠していた。フリーライターという仕事も職業として認めてもらえない風土である。きちんと職にもつかないで同棲しているなんて、とてもじゃないが言えない。言えば勘当ものだろう。半ば追い出されるように東京に来た経緯はあるものの、いざという時の逃げ場は放棄したくなかった。それに、もうひとつ大きな理由がある。晃は、そのことにこだわりを持ち続けていた。
書庫に並んだ取材用ファイルのひとつを引き出してめくる。故郷の人とやりとりした手紙をひとつ取り出し、その消印を確かめた。最後に届いたその手紙から一年余りが過ぎていた。

有香は翌日の夕方、マンションの部屋に戻った。たった一日でも顔を合わせないと、それなりに新鮮さが生まれる。二日ぶりに見る有香を晃は求めた。有香も同じ欲求を身体で表現した。
一年半ほど前に店で出会ったときは、ほんの遊び心のつもりだった。晃にしてみれば水商売の女性とつき合えるほど金まわりはよくない。一回のデートで終わるだろうと思っていたその日、有香から「今のアルバイトは卒業旅行のための資金づくり」と聞かされた。一ヶ月アルバイトしたその日、店には辞めると告げてきたという。
付き合い始めてまもなく、有香の口から同棲という言葉が出たとき、さすがに晃は驚いた。たしかに晃は好意を寄せていた。しかし、それ以上の気持ちになるには付き合いが浅過ぎる。急ぐ必要はないと言うと、かえって有香は強引になった。若さゆえの向こう見ずなのかもしれない。
それまでの晃は、過去の苦い思い出をひきずりながら毎日をルーチン化して過ごしていた。女性に関しては<一時の遊び相手>しか求めず、生活のほとんどは仕事と競馬に費やしていた。しかし、有香の純粋な強引さは、泥沼のように濁った生活に清水を注いでくれるかもしれない。ふと、そう思ったとき、戸惑いながらも晃は有香の申し出を受け入れていた。

有香が晃の胸にささやく。
「ね、去年の私の誕生日のこと、覚えてる?」
「ああ、初めてのデートの日だったよな」
「そう。それに…」
有香はくすぐったそうに潤んだ目で晃を見つめる。
「うん、そうだったね」
「ね、すごいと思わない? だって二十歳の誕生日に初体験したなんて、ドラマみたいじゃない? 私ね、そのことにこだわりがあるの。とってもいい記念になるじゃない」
有香は上体を起こして楽しそうに言う。やや小ぶりだが形のいい弾力性に富んだ乳房が晃の胸の上で踊る。
「これからだって、もっといい思い出をつくれるさ」
「そうだといいわね」
いたずらな笑みを浮かべ、細い指先で晃の鼻先をつまむ。 同棲は、ある意味純粋な愛の形ともいえるが、常に曖昧さがつきまとう。有香との生活は、今となれば晃にとっては大切な時間である。しかし将来については、すべてにおいて確信が持てない。そんな心の奥底を見透かされているような気がした。
いきなり晃は身体を反転し有香をベッドに沈め、まだ愛撫の余韻が残る肌に再び唇をはわせ始める。有香の静かなあえぎ声を聞きながら(このままでいい)と、晃は心の中でつぶやいた。


<GO TO JAIL>

電話の呼び出し音がけたたましく部屋中をかけまわる。この音色は晃の電話だ。しばらく放っておいてから、ベッド脇にあるスタンドへ手をのばし、受話器を引きちぎるように手に取る。声の主は森山だった。
「屋敷さんよ。まだ寝ていたか?」
有香は一瞬目を覚ましたが、すぐに毛布を引き被る。
「ええ、どうしたんですか? 何か急用でも?」
晃はずり上がるようにして半身を起こし、時計を見た。
「このあいだ頼まれた件な、あの、ウチの旅行誌の編集者に会わせるって」
「ああ、はい、どうなりました?」
「都合がつくんだったら、きょう、これからどうだ?」
「げ、これからですか? 何時に?」
「ちょうど昼飯を食おうということになってさ、十一時半でどうだ?」
「えーと、時間的には間に合うかな」
「都合わるけりゃ、また別の機会にするか?」
「いえ、行きます。もし遅れそうだったら連絡いれますよ」
「オーケー、待ってるぜ。じゃあな」
森山のことだから次の機会なんていつになるかわからない。しかし、いつものことだが、あの唐突さには困らされる。まあ、編集者とフリーライターの関係では文句もいえない。ベッドから離れサッシを少し開く。光と影の縞もようが部屋を満たす。
「GO TO JAIL」
朝の祈りを唱え、いつものようにサイを振る。ゾロ目でないのをぼんやりと見ながら、なるほどとうなずいた。昨日は雑誌の校了日だったのだ。いつもは昼出社の森山からこんな朝に電話が来たのは、例によって校了作業が朝までかかったに違いない。
有香が眠たそうな目をしてまとわりついてきた。
「いま何時?」
「九時になった」
「ふーん」
有香が勤める旅行代理店の基本始業時間は十時である。ただし準フレックス・タイム制を採用していて、外務勤務者、つまりツアー・コンダクターなどの現場従業員にはコア・タイム制を適用している。つまり、定められた昼間の4時間をコア・タイムとして、その時間帯は事務所で勤務していなければならないが、出勤時間や帰宅時間はコア・タイムの外側であれば問題なしというルールだ。有香のコア・タイムは十二時から十六時である。有香は新人研修もかねて現場担当をしている。のんびりかまえていられるのは、そういうわけである。
「俺、十時には出るけど、有香どうする?」
耳にかかった栗色の髪を人差し指でかきわけてから、有香は晃の耳元でささやいた。
「じゃ、駅前でモーニングはどう?」
「乗った」
行きつけの喫茶店のモーニングサービスは、ふたりともお気に入りだった。
有香はけだるい仕草でベッドから起きあがる。そのまま服を着せたくないほど、裸体のシルエットは抜群にいい。光の縞模様が美しい腰のラインをいちだんと際立たせている。昨夜の余韻が晃の身体の芯で疼く。俊敏な動きでベッドから起き上がり、有香の白い身体を後ろから抱きしめた。
「あきら、ダメよ。時間がなくなるわ」
有香は晃の手を自由にさせたまま、言葉だけで拒否する。
晃には十分時間はあるのだが、女性の身支度が長いことは理解している。もどかしさを身体の芯で表現したあと、有香を解放した。

吉祥寺の駅前は平日でも混雑している。時間的には学校にいるはずの女子生徒の姿も多い。
ジーンズにベージュ色の麻のジャケット、そしてバッシュ靴という着こなしの男と、淡いブルーのタイトなスーツに白のハイヒール姿の女が、なかよく腕を組んで歩く。晃のラフな服装が、有香をさらに際立たせているようだ。すれちがう若い女性がやたらとチラチラふたりを見比べていく。
行きつけの喫茶店は線路沿いの小路に面している。何度も来るうちに、店員のひとりとなじみになった。二度ほど彼とその彼女とダブルデートをしたことがある。一度目は、居酒屋で飲んでからビリヤードというコースだった。店員の彼はビリヤードが得意で、ペアマッチでさんざんやられてしまった。二度目はボーリングをしてから飲むというコースにした。ビリヤードのお返しに、晃は得意なボーリングを指定したのだ。計画どおり晃と有香チームの勝利となった。決着を期した三度めの対戦は実らなかった。彼らはその後まもなく別れてしまったのだ。
自動ドアが開くと晃は席に着く前に指でVサインを店員の彼に送る。あいさつとモーニング・セットふたつという意味を兼ねている。「アイス」と言葉を追加すれば、ブレンドをアイスコーヒーに変えるという合図だ。
「いらっしゃい。また勝負できるかも」
彼はおしぼりと水をテーブルに置きながらそう言う。
「お、新しい彼女できた?」
「もう一押しってところかな」
そう言いながら有香に、彼特有の笑みを送る。
「尚さん、面食いだからなあ」
彼の名は立木尚。甘いマスクで売り出し中のタレントに笑顔がどこか似ていると、いつか有香は言っていた。彼の挨拶に まんざらでもない仕草で有香は笑顔を返す。
晃は彼と前の彼女が別れた原因は有香と自分ににあるような気がしていた。立木はビリヤードのときも、やけに有香にはやさしかったからだ。手取り足取りという図がそのままあてはまるほど、有香に対して親身に指導していた。晃自身、嫌悪感をふつふつとさせていたが、有香にいやがる様子がないので見て見ぬふりをしていた。もちろん晃には自信があったからだ。ボーリングでは立木はやけにおとなしかった。晃の半分ほどのスコアしか出せないのだから出番はない。そのことでいらついたのか、恋人に些細なことで不満をぶつけ、傍から見ていて晃も有香も長続きしないだろうと思っていた。
「こんどは何で勝負する?」
有香が親しげにたずねる。
「ユカさんが決めてくださいよ。オレ、なんでもOKすから」
オーバーな身振りはタレント気取りのところがある。そういう露骨なところにいやらしさもあるが、憎めない。有香の応対を見ていると、晃にはふだん見せない振る舞いがある。それは、彼女本来の自然な振る舞いなのかもしれない。身勝手な想像で、なんとも言えない猜疑心がわいてくるのを情けなく思う。 晃は有香の気持ちを推し測るようなまなざしで、ふたりを眺めていた。

中央線の車内で、ふたりともウトウトとしてしまった。晃の肩に軽くウェーブのかかった長い髪が流れ落ち、有香の手はしっかりと晃の腕にからみついている。
ふっ、と目を開けると目の前に座っていた中年の女性がジロジロ晃たちを見ている。その訝しそうなまなざしに「そう、俺たちは夜中まで愛し合った同棲している男女です。ご想像のとおりです」と言いたい衝動にかられる。
有香は四谷で降りた。
駅から五分ほど歩いたところに勤め先の旅行代理店がある。電車を降りる間ぎわに、有香はまだ眠たげな目で帰りは遅くなると晃に告げた。
車窓から眺める景色はいつもより色濃く感じられる。葉の緑がより深くなり、強い陽射しがさらに輪郭を際立たせているせいだろう。光と影の風景……。
また、あのセピア色の世界が晃の視野を支配した。
故郷の海辺。
海岸通り。
バス停。そして、朽ちたバラックの待合室。
夏の強烈な陽射しを避けて待合室に座る。ところどころに差し込む光。
蝉の声に代わる潮騒のざわめき。
ときおり通り過ぎる車の排気ガスの匂い。
隣に腰を下ろす女・・・・・・。
何かを置き忘れたような気持ちが喉元までこみあげてくる。
急に車内アナウンスが響き、東京駅に着くことを知らせた。

乗り換えて新橋駅に降り立つと十一時を少し回っていた。待ち合せ時間まで多少余裕があったので、駅のガード下にある格安ショップにプラリと入る。たしか、有香はMDのテープレコーダーを欲しがっていた。色とデザインを見比べ、だいたいの目星をつけておく。バースデイ用の曲が入ったMDテープも一緒に買うつもりなので、帰りにじっくり見ることにした。
十一時半ちょうどに、森山をたずねた。
森山は見慣れない男と声をひそめていた。その場で紹介を受ける。
「あ、どうも、一編の田端です」
名刺を差し出す仕草が妙にサラリーマンっぽく感じられた。一編とは第一編集部のことだ。
「はじめまして、屋敷晃といいます。森山さんの子分にさせてもらっています」
あわてて名刺をバッグから取り出し、交換した。
「競馬に関しては、屋敷が親分だがな」
森山はそう言って豪快に笑う。
さっそく昼食に出ることになった。
新橋駅前の「ステーション新橋」というビルの地下に飲食街がある。そこのトンカツ屋に入った。森山のよく行く店である。 例によってビールをまず注文する。森山は昼間から飲む。もちろん多いときでも二本までだが。校了が終わり気分はいいはずだ。
乾杯をしたあと田端が用件を切り出す。
「森山からあらかたは聞いてますが、旅行記事の経験は?」
直線的な質問だ。
「いや、ないです」
かんたんに答える。この男には、単刀直入がいいと思う。
「そう」
と言って田端は間をおく。
「あなたの記事は読ませてもらったけど、取材力はあるようですね」
「ありがとうございます」
「とりあえず、一度書いてもらおうかな」
森山はすべて承知しているかのように、ただうなずいている。
「はい、お願いします」
晃は有香から仕入れた情報をベースに、若い読者向けの企画をまとめてきている。間髪を置かずに切り出した。
「初めてで何ですが、ちょっと企画の話をしてもいいでしょうか?」
田端は一瞬驚いた目をしてから、うなずいた。
晃の企画は「ツア・コン体験オカルト小話」だった。オカルトと言っても実際は勘違いやミスが原因の笑い話が主なのだが。いくつか例を挙げて説明した。
田端はじーっと考えこむような姿勢で聞いていたが、説明を聞き終えると一言「それ、いいかもね」と言ってくれた。
結局、つぎの編集会議に提案してくれることになった。田端にも何か考えはあったようだが、晃の企画を優先することにしたらしい。あとで森山に聞いたところ、田端はやはりつまらないデータものを晃に与えるつもりだったようだ。
決まるときはこんなもの、と晃は思う。森山から仕事をもらえるようになるまでは、五回も出直しをさせられたものだ。もちろん新米ではあったが、当初はこき使われて二十四時間働いていたような気がする。自分の生活が変わったのは、ライターの仕事を始めてからだ。一般の生活とは一八〇度違っていた。最近になってようやくコツを覚えたという感じがある。新しい仕事が発生したことで、晃は安堵した。空白の時間は心の奥に潜む暗闇の格好の餌食になるのだ。


<旧友>

森山と次回の記事の打ち合わせを終え店を出た。時計の針は午後一時を指している。
さきほどのガード下の店で目星をつけていた買い物を済ませ、そのまま国会図書館に行き資料集めをすることにした。二時間ほどで目的のデータをひととおり集め終わり帰ろうとしたとき、ふと有香が遅くなると言っていたことを思い出した。
都内に出てくることもしばらくない。アドレス帳を眺めていて、ひさしぶりに友人の名に目を止めた。前回会ってから半年ほどになる。
午後六時にその友人と新宿駅で待ち合せをする。約束から三十分遅れて<ヤツ>は来た。
「相変わらずだな、おまえのルーズさは」
晃は遠慮のないあいさつをする。
「しばらく。学生がさ、なかなか放してくれなくて」
あやまらないのが<ヤツ>の癖だ。
<ヤツ>の名は八津信吾。本名がそのままあだ名である。
晃とは小学校から高校まで同窓だった。高校を卒業してすぐにスペインへ留学してしまった。留学といっても大学に進学したわけではない。日本でいう専門学校のような語学スクールに通いながら、まずはスペイン語を学んだ。ひとことも話せないのに留学できる神経の持ち主である。結局、六年間の滞在中にビジネスカレッジを卒業して修士の資格を得たのだから立派である。昨年日本に帰ってきて、いまは二、三の大学でスペイン語の講師をしている。若くて気取りのないところが、学生には人気らしい。
晃は時計を見て、店を決めた。
ひさしぶりに行く店だった。夜の七時からその店は開く。新宿駅から歩いて十分ほどだから、ちょうどいい。「なにぬねの」という名のその店は、早く行っても遅く行っても入れない。ふつうの店は五時半くらいから開店する。遅くても六時には暖簾を出しているものだ。「なにぬねの」は開店から一時間後の八時に行くと、もうすでに満席になっているのだ。つまり、開店の七時前後に合わせて行くしかない。
歩きながら近況を話し合う。
八津はこの夏、ふた月も中南米を旅するという。学生の研修旅行の付き添いを兼ねて、ちゃっかり自分の旅もしてくるつもりだという。往復の航空運賃やほとんどの滞在費は大学が出してくれるわけだから、八津にとっては日本にいるより出費も少ない。世渡り上手の見本のような、たくましい精神である。
店はちょうど開くところだった。おぼえているかどうかは別にして、晃は気軽にあいさつをして暖簾をくぐった。狭い店内は二十人入ると満席になる。
この店のいいところは、日本各地の特産品を味わえることである。とくに日本酒を好む飲兵衛にはたまらないツマミが多い。もうひとつ、ママさんの手作りの炒飯がまた格別なのだ。
海外生活の長かった人間には、こういう店が喜ばれる。八津は日本酒好きなことも加え、目の色を変えながら珍味に舌鼓を打っている。
酒が進み、話はいつか古い話におよぶ。
八津が晃に尋ねる。
「いなかに帰っているか?」
彼にしてみれば軽い気持ちで聞いている。
帰国した八津と会うことになってから、この話題は避けて通れないことは晃も承知だった。しかし、あまりにも軽い言い方にひっかかるものがある。
「いや、ここ数年はな」
「まだ、気にしてるのか?」
繊細さを欠いた物言いだった。晃は手の震えを見せないようにして静かに言った。
「おまえは先に逃げたんだ。わかってるのか?」
八津の箸の手が止まる。
しばらく気まずい空気の中で、グラスにも手をかけられなかった。八津が口を開く。
「おまえに負けたんだよ、俺は」
「何を言ってるんだ、いまさらそんなこと」
「いや、俺にはわかった。彼女の目を見たときにな」
ママが厨房の壁とカウンターの台の隙間から顔をのぞかせて、炒飯ができたよと差し出した。
晃はどうもと言って受け取り、そのまま八津の前に置く。
「うまいぞ、食え」
ああ、と言って八津は蓮華で取り分ける。
「もう、どうにもならないさ。手紙も途絶えた」
晃は素直にそう言った。
「そうか」
八津はようやく食べはじめる。そして、「ウマイ」を連発しだした。

ふたりは酔っ払って店を出た。八津は飲み直そうという。時間はまだ九時である。有香は遅くなるときは十一時を過ぎることがままある。晃はその誘いに乗ることにした。
八津がおもむろに入った店は洒落た名のパブだった。名前にはパブとついているが、内装はかなり豪華だ。歌舞伎町の外れの雑居ビルに構えている店にしては上等だと晃は思う。
何度か来ているのだろう、八津はボーイに女性の名を告げた。
店内をざっと見渡してから、八津が晃の耳元でささやく。
「驚くなよ、俺が今つきあってる女さ」
しばらくしてひとりの女性が晃の隣に座った。八津は平然としている。指名した女性ではないようだ。
有香と出会ったとき以来、この手の店はご無沙汰している。
とりあえず乾杯のあと、晃は隣に座った若くて多少ふっくらとした女性と、他愛のない話をする。ライトの演出で店内は明るさを抑えており、その分顔を近づけて話すのがいい。
八津が笑顔で手を挙げた。なじみの女性が来たらしい。
「いらっしゃいませ」
透き通るような声の持ち主だ。
晃は八津の隣に静かに座る彼女をひと目見た。瞬間、そのまま釘付けになってしまった。(似ている)。八津にほほえむその横顔は……。
思わず、「あっ」と声が出てしまった。同席した三人が驚いたように晃を見る。昼間、東京駅ですれ違った赤いスーツの女性に間違いない。そのことを言いかけたが、彼女は覚えているはずもない。
「こういうことさ」
と、駅でのことを知らない八津は晃の驚きに解答を与えるかのように言った。
軽い会釈をして晃に微笑みを見せる彼女を、晃はまじまじと見てしまう。思い出の女性とうりふたつと言っても過言ではない。服装がハデなわりに化粧はうすい。それが、驚きを深めた。
「八津さんの同僚の方?」
見つめられる矛先をかわそうとして、彼女から口を開いた。
「いや、いなかの友人です」
ぎこちなく言葉をかえす。
「あら、そう。わたしサトミです。八津さんには懇意にしていただいてます」
物腰が柔らかい。八津が気に入るのもよくわかる。古風な女性は彼の好みだ。ましてや……。
八津は里美とのあいさつもそこそこに晃に話しかける。
「確かに……」
脈絡のないことばで話し始めるのは彼が酔っている証拠だ。
「おまえの言うとおりかもしれない」
呂律のまわらない口振りとは対照的に、まなざしは真剣である。
「俺は逃げたのかもしれない。しかしだ、俺の言ったことも正しい」
晃に負けたという、さきほどの話のことだ。
これ以上その話題には触れたくないと、晃は言葉を返さなかった。しかし、里美に会わせた八津の気持ちを理解できたような気がして、少し心が和らいだ。
「俺も今度彼女を紹介するよ」
八津には有香について詳しい話はしていなかった。つき合ってる女性がいることだけは知らせてあった。
「おお、そうか。紹介して後悔するなよ」
晃も八津も周りにかまわず大笑いする。
店中の客や女性が晃たちの席に目を向ける。晃に付いた名も知らぬホステスはシラケたように愛想笑いをし、里美は何事もないかのようにグラスにウィスキーを注いでいる。晃は里見の仕草を見ていて、ふとポケットからサイコロを取り出しテーブルに転がした。二個のサイコロは乾いた音を引きずり静止する。サイの目を見て晃は舌打ちした。
「何だい? 何かのおまじないか?」
八津が興味なさそうにたずねる。晃は首を一度横に振り、なにげなくポケットにサイコロを戻した。
「モノポリーというゲーム知ってるか?」
晃はぶっきらぼうに八津に問う。
「ああ、遊んだことはないが名前だけはな」
「サイコロ2個でゾロ目が出たらと思ってな」
「なんだ、それ?」
八津がばかにしたように嘲笑う。
「ゾロ目を出せば監獄から出られるというゲームルールなのさ」
「なんだか知らんが、変なルールだ」
「お前だけでもゾロ目で監獄から出してやりたかったのさ」
一瞬、八津は考える素振りを見せたが、鼻で笑ってこたえた。
「ちぇっ、つまらねえ。さ、帰るぞ」
晃は、八津がとぼけているのかどうか確かめたかったが、すぐにどうでもいいと溜息で返事をかえした。

八津とは、店を出たところで別れた。おそらく里美の勤務時間が終わるのを待つつもりなのだろう、八津は歌舞伎町の奥へと歩きだした。晃は反対方向の新宿駅に向かう。歩きながら、次は四人で会おうと約束したことを少し後悔した。
すでに0時になろうとしていた。有香は帰宅しているだろうか。新宿駅で電話をかけようとしたが、公衆電話の行列を見てあきらめた。こういうときの携帯電話は便利だと思うが、毎月高い料金を払ってまでの必要性は晃にはない。

満員電車に揺られ、ようやく吉祥寺駅に着いた。少し歩いた電話ボックスから有香の電話番号にかける。有香は出なかった。まだ帰っていないのか? いや、シャワーでも浴びているのだろう。きょう一日のできごとを有香は知るはずもない。自分の心の奥のわだかまりが、よけいな詮索心を生み出す。マンションまでの十分ほどの距離が長く感じられた。
マンションの下から部屋の窓を見上げる。灯かりはついていない。
暗闇の部屋で電話機の緑色の光が点滅していた。有香からの伝言だった。会社からかけてきたのだろう、かたい言いまわしだ。
「実家で用があるというので、きょうは実家に帰ります。よろしくお願いします」
午後七時八分と記録されていた。ちょうど八津と店に入ったころだ。
持病の母親からときどき呼ばれることがある。今夜もそうだろうと晃は思う。遅く帰宅したことの言いわけをせずに済んだ安堵も一瞬だけだった。ひとりで過ごすのが、今夜はつらい。シャワーを浴びると、幸い酔い残りが眠気を誘ってくれた。

起きて時計を見ると十時をかなり過ぎていた。
やはり飲み過ぎたのだろう、頭の芯が鼓動に合わせて疼く。
冷蔵庫から冷えたオレンジジュースのパックを取り出し、晃はそのまま喉に流し込んだ。ベッドに戻りテレビを点ける。平日の昼間の番組ほどつまらないものはない。日本経済の根幹が破綻し始めたというのに、のんきさはあいも変わらずだ、と晃は思う。すぐさま、自分もそのひとりだと思い直した。
テレビに目を向けながら、昨夜のことを思い出していた。
八津信吾と高校時代はいつもつるんでいた。勉強も遊びも、そして恋も。
里美の笑顔が眼前に浮かぶ。そしてクローズアップしながらセピア色に変わり、故郷の人の笑顔がオーバーラップした。
<西条玲子>。
なつかしい響きである。そして忘れ難い響きでもある。
サッシを少し開ける。
フローリングの床に縞模様が映し出され、その光が反射して画面の人間も縞模様の服になる。
「GO TO JAIL」
祈りを唱え、一気にジュースパックを飲み干した。


<胸のつかえ>

晃は今日中に次回の原稿のラフを書き上げるつもりでいた。明日からの土日は、珍しく有香も仕事がない。たまには人混みの中でデート気分を味わうのも悪くないと晃は思う。
いきなり電話が鳴り出した。有香の電話である。四回コールで留守録に切り替わる。
「お休みのところすみません。実は予約の方でキャンセルしたいという連絡が入ったんですが、以前に伊豆沢さんに連絡してあるとのことです。この件について至急連絡をいただきたいのですが。よろしくお願いします」
有香の会社からである。すると、有香は休んでいるのか? 実家から出社していないとなると、どこに行ったのだろう。あるいは実家で何か起きたのだろうか? しかし、それなら会社にはそういうふうに話をしてあるはずだ。メッセージからすると休みを告げているのだから、有香自身の事故でもない。晃はいろいろと考えをめぐらすが、有香からの連絡を待つしかない。
森山に渡す原稿のラフは丸一日かけてできあがった。あとはデータを表形式にするだけでいい。今夜中にメールで送れば一段落する。
すでに陽は落ちて窓は黒く染まりはじめていた。
晃は窓を開け背伸びをし、暗い夜道にしばらく目を留める。正面にあたる向かいのマンションの各階で常夜灯が一斉に灯った。ぶっきらぼうに窓を閉め、乱暴にサッシを下ろす。
テレビを点けると野球中継が始まっている。すでに後半戦に入ろうとしていた。
腹の虫が急に鳴きはじめた。考えてみれば、昼前にカップラーメンを食べたきりである。
アナウンサーのひきつるような声が挙がった。
「逆転満塁ホームラン!」
晃のひいきチームはほとんどテレビ中継がない。今夜はそのチームが戦っている。そして今、ひいきのチームが逆転したのだ。晃は思わずガッツポーズをくりかえす。
そこへドアホンがひとつ鳴り、鳴り止まぬ間にドアが開いた。
「ただいまー」
有香の声だった。いつもよりトーンが高い。
「ね、夕ご飯食べちゃった?」
バタバタと上がり込むなりそう言う。
「いや、まだ。ちょうど腹が減ってきたところだよ」
「よかったー。じゃ、食べに行こうよ」
「あ、俺さ、ギャラが遅れてて、いま金欠なんだ」
「そう、じゃあコンビニ行ってくる」
有香は自分がおごるとは、ほとんど言わない。
「そう、悪いな。俺、カレー弁当でいいや」
有香はそのまま着替えずにサンダルで出かけた。
いきなり今日の所在を問いただすことはしないようにしようと決めていた。
十分ほどで有香は戻ってきた。
「あー腹減った」
有香がそう言うのは珍しかった。いつもの夕食は酒が中心になるせいか、つまみ程度のものしか食べない。そもそも有香の場合、レストランでもパスタやサラダばかりで、こってりしたものは敬遠するほうである。
「どうした? 昼飯食わなかったのか?」
有香は上着だけ脱いで、テーブルにつく。
「そうなのよ、ちょっとね」
あいまいな物言いをする。
「そういえば、留守電あったよ。会社から」
晃は軽い調子でそう言い様子をうかがう。
ご飯を口いっぱいにほおばりながら有香がこたえる。
「うん、実家にもきた」
話しづらそうに口をもごもごさせている。
「ずっと実家にいたの?」
「うん、ちょっとね」
話したくない理由があるのだろう。問いただすことは止めにして晃は話題を変えた。
「明日さあ、遊園地にでも行ってみようか?」
「いいわね、でもお金ないんでしょ?」
「別にぶらつくだけでもいいかなと思って……」
晃の不満そうな声を察して、有香は明るい声で言う。
「動物園でもいいわよ」
「多摩北動物園?」
「うん」
「そうか、ついでに隣の多摩テクノにも行ってみるか」
「あ、ゴーカート乗りたーい」
「うっしゃー、その線でいこう……って金がなかった」
有香はうらめしそうな上目づかいをしたあと一呼吸置いた。
「しかたないわね、今回はアタシのおごりにしてあげよう」
いくぶんハイになっている感じである。
「え? それってあとが怖いっていうこと?」
グラスの水を浴びせる真似をして有香は晃を睨む。晃はおどけて思わず椅子から転げ落ちてしまった。結局、何があったのかは聞かず終いだった。
晃は個人的な問題について、有香から相談されないときは立ち入ることを避けてきた。有香もそういうスタンスを望んでいると思っている。
その晩、ふたりは燃えた。とくに有香は積極的で激しかった。

翌日、ふたりは午前中にマンションを出た。
井の頭線から京王線に乗り換え、一時間ほどで動物園に着いた。
駅前の道路は車の行列だった。駐車場へ入る順番を待っているらしい。そんな光景を見るとなおさら車を買う気が失せる。ふたりで出し合えばローンを組んで買えそうだが、まだ互いに会計を別々にしている。有香はときどき車があればと言うときもあるが、晃には負担だった。仕事上でも必要ない。
多摩北動物園は山の中にある。園内のほとんどが坂道なだけに、舗装だけはしっかりとしている。これなら雨が降っても滑ることはない。近隣にこれだけの規模の動物園はないので、休日は家族連れで賑わう。一時はパンダのいる珍しい動物園として知られていた。今はパンダこそいないが、ライオンやキリン、象など大型の動物もいて、見応えは十分である。
チータの檻の前で有香がふとつぶやいた。二頭のチータが狭いガラス張りの部屋の周囲を休みなく歩き回っている。
「檻の中で生きなければいけないのよね」
栗色の髪をかきあげて、またジッとチータの動きを見つめる。
何かを考え込んでいるという様子がありありとわかる。
「相談事があるなら聞くよ」
チータに目を向けたまま、そう言って晃は有香の反応を待った。
有香は黙ってその場を離れ、チンパンジーの庭へ向かう。途中、ライオンが放し飼いになっている広場が眼下に見える。日溜まりに母ライオンと子ライオンが群れて寝そべっている。オスのライオンは離れた場所に二頭見えた。園の売り物であるライオンバスの相手をしているところだった。
またしても有香がつぶやく。
「父親ってたいへんよね。家族を守るために、いやなことも引き受けなきゃね」
晃は少しいらだちを感じた。いつもの有香らしくない勿体ぶった物言いなのはあきらかなのだ。
「ねえ、家族のことで話したいことがあるなら、そう言えよ」
有香は唐突に振り向くと、ここに来て初めて晃を正視した。
「もしね。もしもね。あたしがライオンの前に放り出されたら、助けにきてくれる?」
突拍子もない質問で、呆気にとられた。
「なんだよ、いきなり」
「こたえてよ」
ぶっきらぼうに言う真顔がかわいい。昼の光の中でこうして向きあうことは久しぶりだった。しかし、有香のまなざしには追い詰められた小動物のような怯えがある。
「そりゃ、助けに行くと思うよ」
「へーんな答え」
「何が変なんだよ」
有香はまたプイと歩き出した。
チンパンジーとオランウータンの庭を素通りして象の広場で足を止める。
「うちの父親の話。したっけ?」
「いや、サラリーマンとしか聞いてない」
「正確に言うと、銀行マン」
「へー、そうなの」
別に興味はなかったが、晃は聞くぞという姿勢をあえて作った。
「名門、日本アジア銀行の支店長」
森山のところで見た新聞記事を晃は瞬間的に思い出した。
「じゃあ、今、たいへんだあ」
「そう。でも、どれくらい大変かわかる?」
「そんなこと、わかるわけないよ。俺、経済専門じゃないもん」
「そうよねー、フリーライターだし」
「どういう意味で言ってんだ?」
有香のトゲのある言葉に晃はつい語気を荒げた。
「言いたいことがあるなら、まっすぐ言ってくれないか?」
隣で象を見ていた子どもが、ひょこっとふたりを見る。
晃はクールになろうと、ひとつ咳払いをする。
「きょうの有香、ちょっと変だぜ」
「そうね、ちょっと変ね」
さびしそうな笑顔を見せ、またその場を去る。
休憩所で軽食をとった。晃は黙ったまま人の流れを眺めていた。
有香は一服し終えてから、ふたたび歩き始めた。しばらく、ふたりに会話はなかった。キリンの群を眺めながら有香がやっと口を開く。
「父にね、いい話があるの」
「どんな?」
「いわゆる、ヘッドハンティングね」
「そりゃ良かったじゃない」
「系列ともいえる日本アジア商事の本社財務部長にならないかって」
「ほんと? それ。すごいじゃん」
「財務の西脇さんって取締役本部長でね、あたしも知ってるの。実家の近所だから」
「ふーん。じゃあ、近所づきあいがあるわけだ」
「そう。そこの長女とは、中学と高校がいっしょだったし」
「なるほど。同級生?」
「うん、でも同じクラスは一度きりだったかな」
「で、親父さん、何か不都合でもあるの?」
「……」
「ま、言えない事情があるなら聞かないけど」
有香は一瞬躊躇するようにうつむいてから言った。
「条件つきってところかな」
「そう。その条件がつらいんだ」
「父親にしてみれば、それほどでもないと思うけど」
晃はさらに質問しようとしたが、有香が先まわりした。
「まあ、いいわ。たいしたことじゃないから。ごめんね」
口をキュッとすぼめて晃を見る。
その仕草を見て、晃はそれ以上詮索するのを我慢した。
有香はゴーカートに乗りたいと言って、歩みを速めた。
多摩テクノで有香ははしゃいだ。最後に乗ったUFOライダーの急速に滑り落ちる喧騒の中で、有香が晃に何かを言った。しかし、晃には聞き取れなかった。降りたあとで聞き返したが、有香は何でもないと言ってとりあわなかった。
煮えきらない気持ちが、帰路のふたりを気まずくさせた。
かすかに有香の口の動きを思い出す晃のまぶたに、「玲子」の文字が浮かんだ。しかし、そんなはずはないと打ち消した。


<玲子>

西条玲子は、町役場を出てバスで友人宅に向かっていた。
中学の同級生である中谷静江とは、今も親交を深めている。静江はすでに一児の母である。女性の二十五歳という年齢は、この辺りでは母親になっているのが普通である。そうでないと肩身のせまい思いをすることも少なくない。土地の風習はなかなかに頑固だ。
バスは海岸通りにさしかかろうとしていた。
玲子は停止ボタンを押してドアに近づく。
少し滑りながらバスは止まった。
バス停の目の前の家が静江の現住居である。
門の呼び鈴を押すと、すぐに玄関から人影が出てきた。髪型は変わっているが静江である。電話を入れておいたので、静江もわかっていたようだ。
「今ね、ちょうど子どもが寝たところなの。よかったわ」
家から離れているのにもかかわらず、静江は小声で玲子に笑いかけた。
「ごめんね、面倒なことお願いすることになっちゃって」
玲子はそう言ってすまなそうな表情をする。
「何言ってんのよ。とにかく入って」
静江はまだ小声のままだ。
居間に通されて、四角い大きな卓袱台の上座に座らされた。奥には金メッキの仏壇が天井までの高さを誇っている。
静江は襖つづきの隣の部屋へ入って、またすぐに戻ってきた。
「最近、なかなか寝てくれないのよ、あの子」
今度は家の中なのにふだんの話し声に戻っている。母親の立場にならないとわからないことがある。子育ては常識にあてはまらないことが多いのかもしれない。と、玲子は素直に静江の行動を受けとめる。
「もう、どのくらい? 健太くん」
「もうすぐ一歳よ。まったくー」
「たいへんよねー」
玲子は静江の次に出てくる言葉を代弁した。電話で何度も聞いているからだ。
「まあ、おばあちゃんが居てくれるからね。助かってるんだけどー」
少し声を高める。玲子にもその気遣いはよくわかった。
ちょうどタイミングよく静江の義理の母親が姿を見せた。
「あら、いらっしゃい」
「あ、おかあさん。こちらね、私の幼なじみの西条さん」
母親は目をしばたたく。六十歳くらいだろうか、さすがにシワが目立つ。こんな田舎町では若いときから化粧に手をかけない女性は多い。
「西条さんっていうと、橋から右手に行ったとこの?」
「いえ、神社の隣です」
「あー、本家の方かい」
「はい。玲子ともうします」
「そういえば嫁から聞いて。このたびは、おめでとうさんです」
いきなり頭を下げられて、玲子は座布団から後ずさりして深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。静江さんにムリに司会を押しつけてしまって、もうしわけありません」
母親がお辞儀を繰り返している傍らで、静江がしかめ面して首をヨコに振る。話が長くなるから、という合図だろうか?
姑は後ろにも目がある、といつか静江が話していたとおり、母親はそれでサッサと引っ込んでしまった。
「静江の言っていたとおりかも」
玲子はクスッと肩を上げたが、もうひとつ聞かされていたことをふと思いだし、あわてて口をふさいだ。静江は「障子に目あり、ふすまに耳ありよ」と以前漏らしていた。
ひととおり近況を話し終え、披露宴の段取りを玲子が説明する。
本来なら仲人夫婦があいさつがてら話をしにくるところだが、最近の銀行倒産のあおりで町の建設業界も危機に瀕しているらしく、多忙きわまりない。玲子の父親と同期で、仲人は町の最大手の建設会社社長である。父親が農協の理事長をしていることもあり、ある意味二人三脚的な間柄でもあった。玲子の見合い話を持ってきたのは、その社長夫人である。
静江に司会のお鉢がまわったのには当然、それなりの理由がある。
静江は高校卒業後、地方テレビのアナウンサーとして就職した。一年目からローカルの人気番組「仲良し嫁・姑」のアシスタントをつとめた。嫁三人と姑三人が相対して、言いたいことを言い合うトーク番組である。たまに深刻な話も出るが、総じて笑いと活気に満ちていた。一時は五十五%というとんでもない高視聴率を挙げたこともある。彼女のウイットに富んだ話しぶりは、地方局ではあるが、当時絶大な人気を独り占めしていた。
そんなわけで、結婚に対しては両家の両親も含め、親族からも異論はまったく出なかった。
「式はもちろん洋式よね? いいなあ船上結婚式かー」
「あたし船酔いしそうで」
と言い、玲子は溜息をつく。
相手の男は隣町で青年会議団の副団長をしている。名称はいかめしいが、日本全国どころか世界的にネットワークを組んで交流会を催している文化団体だ。
毎年一回、日本ではアジア方面へ交流ツアーが企画されている。二週間をかけて、船で近隣諸国をめぐり交流会を開く。今年のそのツアーの途中で、結婚式を挙げることになったのである。当初予定していた日取りからずれたこともあり、ツアーでふたりだけの式をまず挙げることになった。帰ってきてから披露宴を盛大に催すという段取りである。
静江がまた小声になる。
「ところで、あれから手紙は?」
「うん」
と、玲子はうつむいて首を振る。
「電話もなし?」
こんどは黙ってうなづく。
静江にだけは文通していることを話していた。頑固一徹な父親だけに、連絡をし合っていたことが知れたら大騒動である。手紙の差出人名がいつも「A.Y」となっているので、両親は気づいていない。
しかし手紙のやりとりは終わっていた。
「そう。とにかく玲子が決心してよかったわ」
「……うん。そうね」
力のない笑みがこぼれる。静江は玲子の気持ちを察して、あえて明るく言う。
「男っぽいけど、けっこうやさしそうじゃない」
一度だけ静江に会わせたことがあった。というより役場で鉢合わせになっただけだが。
「子どもができたら、ぜーんぶ忘れちゃうわよ」
「そうね、静江を見てるとわかる気がする」
静江もさんざん悩んだあげくの結婚だった。
売れっ子アナウンサーという仕事との交換条件になる。家庭と仕事の両立など、この町で主張しても暖簾に腕押し。というより袋叩きに遭いかねない。しかし、こんな風土でも静江は故郷を離れることなど、微塵も思わなかった。もちろん相手の男性を好きだったことは一番の理由だが、決断の切り札は、なによりこの町が自然と人間味にあふれていることだった。

バスの時間を見計らって静江の家を出た。
太陽はすでに役割を終えたかのように、山の陰に隠れていた。
三分ほどでバスは来た。乗客のまばらな車内の奥の席に、見なれない旅支度の若い女性が座っている。
玲子はいつか役場に訪ねてきた若い女性のことを思い出した。商工観光課に用があったらしいが、別の課にいる玲子もあとで呼び出されたのだ。なんでも知り合いのカメラマンに頼まれて、この町の観光パンフレット用のモデルにならないか、という誘いだった。玲子はあいまいな返事をかえしたが、その後音沙汰はない。
なぜかそのことが心の片隅に引っかかっていた。
三つ目の「海岸通り」というバス停で降りる。ここから二十分ほど歩いた小山の裾に玲子の家がひっそりと佇んでいる。小山の頂上には、古びた神社が誰を待つこともなく鎮座している。
道路の反対側に建てられた街灯で待合室は照らされていた。静かな波の音が、夜の闇をさらに深くしている。ふと玲子は待合室のベンチに腰掛けてみた。こうして夜の海を眺めていたあの頃を思い出す。いつもは三人で、たまにふたりで……。


<誕生パーティ>

週が明けて、晃は森山から言われた原稿の手直しと、旅行雑誌のコラム記事に精を出していた。コラムは、日曜日に有香から聞いたオカルト話を基に、あと二、三人のツアー・コンダクターと旅館の主人から電話取材をすればまとまる。明後日の昼までには田端に原稿を手渡せると踏んでいた。その日の夜は有香の誕生パーティをすることになっていた。たまたま八津から飲みの誘いがあったときに、有香の誕生日のことを話したことでパーティを開くことになった。誕生日である木曜の午後六時から四人で会うことに、有香は意外にも反対はしなかった。ふたりだけで祝うのはその後の楽しみでいいと言う。ゴールデンウィークという繁忙期も過ぎ多少余裕があるのか、有香は翌日も有休をとっていた。いろいろなわだかまりを振っきるきっかけにしたい、と晃は思う。

木曜の午後、晃はコラム原稿を手にしステーション新橋の二階の喫茶店で田端を待っていた。
ゆったりとした椅子は、仕事に疲れたサラリーマンの格好のうたたね所のようだ。店も承知で文句は言われない。時間待ちする間、晃はバースデイ・カードに一文を記した。それをプレゼントの袋に入れ、バッグにしまう。家に置いておくと有香が見つけてしまうかもしれない。そう思い、プレゼントを買ってからずっとバッグに忍ばせている。
田端がゆっくりとした歩調で店内に入ってきた。
「どうも、お待たせ」
晃は軽く会釈する。
「大した仕事じゃないんだし、メールで送ってくれればいいのに」
田端は安いギャラだからと気をつかう。
「すみませんお手数をかけて、最初なので手渡ししたいと思って」
「殊勝なこころがけだね」
森山はめったに誉めないので、田端の言葉に思わず頭をかく。
「ま、取材先への見本誌はウチで手配するから。名刺とか宛先がわかるものが入ってるならそのまま預かるよ」
田端はのんびり構えているにもかかわらず、忙しく封筒を受け取った。
「ギャラは森山と同じシステムだから、わかるよね?」
「はい、だいじょうぶです。ところで原稿は読まなくていいんですか?」
    「帰ってからゆっくり読むよ」 田端は座りなおすと、顔を突き出して言う。
「ところでさあ、今週時間ない?」
ようやく本題の話ができるといった感じで、目つきが変わる。所詮、コラム原稿なんてどうでもいいということか、と一瞬晃は気持ちの萎えた視線で応える。
「と、いうと?」
「いやね、予定していたライターが事故に遭っちゃってね。見開き二頁なんだけど、手当てつかなくてさ」
「どんな記事ですか?」
「ちょっとした啓蒙ものでさ。連載の『今、ふるさと』ってやつなんだ」
「ああ、あれですか」
「かなり田舎町なんだけど、乱開発のリポートなんだ」
「今回はずいぶんハードなテーマですねえ」
「そうなんだよ。以前に一度、産廃問題で取り上げた町でさ。美化運動をテーマにね」
ウェイトレスへの注文で、話が途切れた。
「いや、実はさ」
ウェイトレスの尻を目で追いかけたあと、一段と身を乗り出して小声になる。
「うちのドル箱のR週刊誌から言われてさ。探り入れてくれっていうことなんだ。オフレコだぜ、この話、絶対」
晃も合わせて上体をかがめる。
「なんでも、ちゃちな建設会社らしいんだけどさ。日本アジア商事と取引きがあるんだけど、乱開発に手を貸していたらしいんだ。ところがさ、あの銀行破綻事件で日本アジア商事が急に手を引いた。建設会社にしてみれば大誤算だよ。それで、地元出身の土木系の族議員に働きかけて大もめになってるらしい。当然汚職がらみなんだ」
聞いていると晃の手に負えるものではないと思う。
「田端さん、俺は政治や経済の方はからっきし……」
「ま、話はこれからだ。背景はそういうことなんだが、とりあえず現場周辺というか、現場作業員とか地元民とかのコメントがほしい。特に管轄の町役場からのデータが欲しい。もちろん、正面きってR週刊誌の名を出すと口をつぐむだろうから、あくまで も旅行雑誌の取材ということでさ。さりげなくってわけ」
晃は渋るそぶりを見せたが、田端に頭を下げられてつい断りきれなくなってしまった。
ここで断ったら今後が、という弱みもあった。詳しい打ち合わせは後日ということになり、その場はそれで別れた。
森山に電話で事情を話すと、田端から聞いているという。原稿の締め切りも融通をつけると言われて、なお断る材料はなくなった。
とりあえず仕事をもらえたことは喜ぶべきことである。断ろうとしたなどと有香に言えば、きっと叱られるに違いない。

定刻に有香を連れだってパーティ会場となる指定の店に入ると、八津と彼女が手を上げて迎えてくれた。里美は純白のワンピースを自然に着こなしている。商売柄というより、彼女自身のセンスの良さだと晃は思う。
「珍しいな時間より前に居るなんて」
晃は里美に目礼してから、八津に小声で耳打ちした。
「人によるさ」
あっけらかんとして八津はこたえる。
    有香はというと、妙に緊張して立ちすくんでいる。人見知りするタイプとは正反対の性格なのにと、ふと晃は思った。     「どうしたの、有香?」     里美をジッと見つめていた有香は、晃の声に驚いたように反応する。     「あ、ごめんなさい、白のワンピースがとてもお似合いだと思って」     女性は、同性のファッションが気になるものなのだろう。しかし、いつもは自分に対して言われる言葉を有香が言うのは珍しい。 席につくとさっそく互いに紹介しあう。有香にはほとんど彼らの話をしていない。晃が親友と呼ぶ友に初めて会うせいなのか、有香は多少ぎこちない挨拶になる。親友は、相手の親よりも気をつかうものなのかもしれない。あるいは、初めて会う人たちに誕生日を祝ってもらうことに恐縮しているのだろうか。
四谷三丁目の裏通りに「550」と看板を掲げているこの店は、知る人ぞ知るというドイツ料理の名店らしい。大きなテーブルひとつとカウンターだけという造作は、一見客には入りづらい。グルメ雑誌には掲載しないという店主の方針を聞いてなっとくした。BGMは一九五十年代の名曲を多くそろえているという。
食事をする前にと、八津たちは有香へのプレゼントを取り出した。スペイン製の木のオルゴールだった。小さいが音色がとてもいい。晃もつづいてプレゼントを有香にわたす。
「ああ、やっとバッグが軽くなった」
と照れを隠すように軽口をたたく。
有香は中身を開けてニッコリとはしたものの、いつもの明るい笑顔ではない。まだ、しこりが残っているのだろうか。それでも今夜のバースデーパーティで気分を変えてくれるだろうと晃は期待している。
会話は八津のスペイン体験談を中心に、映画、音楽、酒などバラエティに富んだ。おとなしくしている有香に里美はときどき気づかいしながら、楽しいおしゃべりの輪を陰で演出する。なかなかに才色兼備だと晃は感心してしまう。つい里美に視線が向く晃の横顔を、有香は黙って見ていた。
周囲はこの四人のステージを鑑賞しているかのようだった。それなりに男前のふたり、そして有香も里美も文句のつけようのない美女である。華やぎは、最後のバースデーケーキでしめくくられた。バースデーソングに他の客も拍手で調子を合わせる。気前のいい店主の気づかいで全員にワインが振る舞われた。
二時間ほどのパーティは、あっという間に幕を閉じた。晃は八津と里美に礼を言い、再会を約束した。八津たちを先に送りだしたとき、少し元気が戻ったのか、有香は晃の腕をギュッと握りふたりを笑顔で見送った。タクシーの窓からVサインをつくる八津の手は、そのまま夜の闇に吸い込まれていった。
大きくひとつ深呼吸すると、晃は有香の肩を引き寄せ四谷三丁目の地下鉄駅をめざした。
結局、晃たちは新宿駅で降りたあと、タクシーで帰ることにした。知らぬまにワインを飲み過ぎていたのかもしれない。有香ではなく、晃の足が多少もつれていた。

マンションの部屋にたどり着くと、ふたりはジュースで乾杯した。
有香はもらったプレゼントをテーブルにひろげた。
「あきら、ありがとう。覚えていてくれたのね」
有香の声に明るさが戻る。晃は内心ホッとした。
「そのオルゴールもいいよな。八津の見立てじゃないな、それは」
里美が選んだのではないか、と晃は思う。
晃が笑みを浮かべながらオルゴールを聞いているのを見て、有香はいきなり席を立った。ガタンと大きな音をたてて椅子が引かれ、いきなり有香はオルゴールを奪い取るようにつかみダッシュボックスに投げ捨てたのだ。
「どうしたんだ? いったい」
あまりにも突然の変ぼうに、晃は狼狽した。
有香は口を閉ざしたまま動かない。
「何が気に入らないんだ。この前といい」
さすがに切れる寸前だった。
有香はベッドにかけこみ、堰を切るように泣きはじめた。
「なんで、なんで会わせたのよー」
喉を詰まらせながら叫ぶ。
晃には意味がまるでわからなかった。
「あたしへの当てつけなの?」
「何を言ってるんだ。わけがわからないよ」
「うそっ! あんなに似た人」
(似た人?)衝撃が晃の全身をつらぬいた。
(有香が故郷の人を、西条玲子のことを知っている?)
脳みそがスパゲッティ状態になったように晃は混乱した。どうして? だれが教えた? いや、そんなことはあり得ない。
「いったい、誰に似ているっていうんだよ」
口を尖らせながらも、冷静にゆっくりと聞いた。
「もう、いい!」
有香は跳び起きるとコートをつかみ、そのまま出ていってしまった。
混乱の収拾がつかないまま、晃は追いかけるタイミングを逸した。
(なぜ? 玲子のことを?)


<故郷>

週が明けた月曜、急にT出版の第一編集部を訪ねた。午前に田端から呼び出しがかかったのだ。
「えーと、これが取材の詳細だ」
手渡された紙資料を読んでいて晃は驚いた。運命のいたずらか、取材先は自分の故郷の町だった。
有香のことを考える。
田端に担当を代えてもらえないかと相談したが、今さら変更はきかないと突っぱねられた。取材のお膳立てはすべて整っているのだ。そして、これは旅行雑誌の二頁だけの問題ではもはやなかった。T出版の屋台骨とも言える雑誌の重要な取材も兼ねている。
晃は観念した。出発は火曜日、つまり明日である。随行するカメラマンがその場に呼ばれ紹介された。編集部内のカメラマンである。彼が指示を出すことになった。
取材の準備で晃はマンションにあわただしく舞い戻る。
有香はあれから三日間帰っていない。
土曜日に晃が外出して戻ると、有香が身の回りの一部を持っていった形跡があった。おそらく実家に帰ったのだろう。有香の勤め先からは電話がない。きちんと出社しているか、休みの届けを出しているはずだ。
晃は有香の実家へは電話をしなかった。有香との約束を守っている。というより、本心は怖いのだ。有香が消えてしまいそうな気がして……。

有香のいない朝は鳥の声がよく聞こえる。
サッシを薄く開く。
よこ縞の美女の裸体は、そこには見えない。
「GO TO JAIL」
祈り……。そしてゾロ目が出ないサイコロ……。

羽田からのフライトは午前便だった。
前日に準備しておいた旅行バッグを手に、ドアを開く。
閉める前にしばらく部屋の様子を記憶にとどめる。誰もいない部屋に「行って来ます」と声をかけた。
駅前の喫茶店<ルイ>に立ち寄ることにした。朝食の目的のほかに、有香が立ち寄っているかどうか情報も欲しかった。
店内に入ると早朝だというのに客は多かった。立木の姿がない。きょうは遅番なのかもしれない。
晃は見慣れないウェイトレスに、いつものモーニングを頼んだ。
腰を落ち着けて客を観察する。どうも取材をするようになってから、妙に観察癖がついたように思う。ほとんどは若いサラリーマンである。しかし中には独身なのだろうか、年配の人もいる。いずれも常連風だ。この喫茶店は彼らの毎日のスタート地点なのだろう。
奥の席の男女が視野に入った。よく見なおすと、こちらを向いて座っているのは確かに立木である。そして後ろ向きの髪は……有香にまちがいない。喉のあたりの脈が大きな音を立てる。
立木は晃に気づいたらしく有香に何事か話している。それでも有香は振り向かない。立木はひょこんと晃に会釈をし、意味ありげな笑みを浮かべている。晃は胸をかきむしられるような気持ちで席を立った。有香の態度が許せない。奥の席に近づくと、ふたりに外へ出ようとうながす。立木は有香の荷物を持ち、有香を立たせる。晃は先頭に立ち、さっさと店の外に出た。
ガード下はほとんどが飲み屋で、昼間はシャッターが下りている。店の前の狭い通りは駅に向かう人の流れで一方通行路のようである。晃は流れに逆らい、ガード下の駐車場に入り込む。場合によっては立木と一悶着あると思うからである。足を止めて振り向く。
「理由を聞きたい」
うつむいている有香を注視しながら、ぶっきらぼうに言う。有香は何も言わずにジッと立ちすくんでいる。立木が間に入った。
「あきらさん、ちょっと聞いてくれよ」
晃はムッとした。なぜ、この男が代弁しようとするのか。有香と立木の間で何が起きているのか知らないが、どうして有香は直接話してくれないのだ。荒々しく晃は立木を押しのけた。
「おまえの出る幕じゃないだろう。俺は有香に聞いてるんだ」
険悪な空気に、有香が顔を上げた。
「誤解しないで、尚さんとは何でもないから」
有香がこれまで晃に対してウソをついたことはないと信じている。そういう有香の純粋さが好きだった。しかし、今回だけは鵜呑みにできない。荷物の中身は衣類や身の回りの物にちがいない。実家に戻らずに立木の部屋に泊まっていた可能性もあるのだ。猛烈な嫉妬心が、直接的な質問に変わる。
「昨日はどこに泊まったんだ?」
「すぐそこのビジネスホテル」
有香は晃の目を凝視しながらこたえた。
「その前は?」
「実家にいたわ。昨日だけホテルに泊まったの」
「誰と?」
有香はおおげさに首を振ると、長い髪が大きく揺れた。
「ひとりに決まってるでしょ」
ムッとした口ぶりで、晃から視線をそらせた。
「じゃあ、何でこの男といるんだ。立木、どうなんだよ!」
晃は矛先を立木に向けた。ふてくされたように視線を泳がせていた立木が晃を睨む。
「オールで映画見てさ、ちょっと店に立ち寄ったら有香さんがいたんだよ」
もっともな話だ。しかし、そんな言い訳はだれでもできる。以前、有香と立木がなれなれしい会話をしていた情景をつい思い出す。嫉妬はおさまらなかった。
「ふたりで口裏を合わせることもできるよな」
そう言ったあと、急に虚しさが晃の全身を気だるくした。
「冗談じゃないぜ、あんた、有香さんの気持ち、ちっともわかってねーな」
食ってかかろうとする立木を有香が制止した。
「もうやめて! あたしはウソは言ってない。あきらは、あたしをそんな女だと思っていたの?」
有香の目の端に光るものが見えた瞬間、晃は後悔した。有香を責めることができるのかと。嫉妬は自責の念に変わりつつあった。立木は有香の荷物を地面に置くと、その場を去っていった。歯をくいしばり涙をこらえている有香につぶやいた。
「そんなふうに思ったことはない。悪かった」
有香は何も言わずに荷物を手にした。晃はふと我にかえり時計を見る。空港まで急がなければならない。
「俺、これから取材なんだ。明後日帰るから、家で待っていてくれ」
有香は軽くうなずいてから歩き出した。晃は取材を放り出したい気持ちになるが、そうもいかない。重要な仕事なのだ。
「有香、ごめん。例の田端さんの特命で、どうしても行かなければならないんだ」
「いいの、わかってる。新しい仕事だし、大切なのはわかってる。あたしもこれから会社に行くわ」
「明後日、遅くなるだろうけど帰ってくるから」
「あたし、もしかしたら実家にいるかもしれない」
駅の構内でふたりは別れた。有香はマンションに寄っていくと言った。

フライトは一時間三十分ほどだった。高所恐怖症の晃には、それでも長過ぎる時間である。
空港を出ると、そのまま開発現場に直行した。ゴルフ場開発現場、リゾート施設開発現場、そして保養所建設現場と、三カ所をその日のうちに取材する強行スケジュールが組まれている。建設を続けているところも一部あったが、ほとんどは瓦礫の山のようにひっそりとしていた。どこもプレハブの宿舎が近くにあり、現場で取材できないときは宿舎にいる人間からコメントを拾う。
晃の住んでいたころとは町の様相が一変していた。中心街を離れるとまだ面影を残しているところもあるが、へたをすると方角さえつかめない。
取材を終え、疲れた足取りで宿へ向かう。宿は駅近くに一軒だけあるビジネスホテルである。カメラマンもさすがに疲れた体で、あいさつもそこそこに自分の部屋に直行した。
晃の実家へは隣の駅から歩いていける。夕方遅くにはなっていたものの、訪ねてみようかと一瞬逡巡したが、やはりやめた。
翌日は朝早くから地元住民へのインタビューと、町役場の担当課長への取材になっている。
もちろん、玲子が役場に勤めていることは知っていた。
一年前に晃が手紙を出したあと音沙汰はない。それが何を意味しているのかは十二分に理解している。ここで顔を合わせるのは、晃だけでなく玲子にとっても苦い再会になるだろう。できれば会わずにこのまま東京へとってかえしたい。
有香との共同企画で新しい仕事が始まった。その仕事がきっかけとなり、今、故郷の町に来ている。<過去>から<現在>へのス テップを登ろうとしていた矢先に、と晃は偶然の因縁を怨めしく思う。あの忌まわしい過去は、やはり消し去ることができないのか。廃れたビジネスホテルの部屋で、晃は眠れぬベッドから起き上がり、コイン式冷蔵庫のビールを飲む。有香の裸体がなまめかしく脳裏に浮かぶ。
はた、と有香の言葉を思い出した。なぜ、玲子の名を知っていたのか? 晃の知らない間に玲子から連絡があったのだろうか? いや、そんなはずはない。もしかしたら手紙のファイルを見られたのか?
思い出してみれば里美に会ったあとの有香の動揺は、玲子の顔を知っていたとしか考えられない。有香と玲子は面識があるのだろうか?
堂々巡りに考えあぐんでいたせいで、いつのまにか窓越しの空が白みはじめていた。
朝食はホテルの一階にある小さな喫茶兼レストランの定食で済ませた。
食事をしながらカメラマンと打ち合わせをしたあと、そのままチェックアウトしてホテルを出た。
地元住民のコメントは駅前で拾うことにした。
予想どおり、開発の是非について関心を持つ住民は少ない。三人ほど疑問を持つ人にインタビューできたが、核心に触れようとすると相手は慎重な表現に終始した。ただ、地元出身議員の評判はすこぶるよかった。カメラマンの了解で、午前中で住民のコメント取材は終了した。今回の取材でいちばん重要なのは、役場の担当課から<背景>を探ることにある。
町役場とのアポイント時刻まで二時間ほど余裕があった。ふと衝動的に、晃は海岸通りの景色を見たくなり、カメラマンの了承を得て駅前から路線バスに乗りこむ。
小さい町なりの繁華街を抜け、十五分ほどでバスは方向を変え海の見える通りに出た。
その瞬間、晃の中にあるセピア色の景色と眼前の景色が融合した。
セピア色の対象物は次々と自然色に塗り替えられていく。それと同時に、晃の内部に澱んでいた暗闇へ一筋の光が射し込み始めた。
<海岸通り>バス停で下りる。不思議なことに待合室はあの頃のままそこにあった。いくぶん朽ちかかっているかもしれない。隣りの道祖神も変わりない。都会生活は激しい移り変わりであっても、何も感じない心に慣れてしまう。しかし、故郷の時間は、ある部分流れにさからう力が働いているのかもしれない。
玲子に会うことになるなら、それでもいいと思えた。
駅に戻りタクシーで役場に乗りつける。

西条玲子はいつものように事務をこなしていた。
青年会議団主催の海外ツアーは明後日に迫っている。出発前日から二週間の休暇を申請していたので、休み前にできるだけ自分の仕事をこなしておきたかった。就業規則による慶弔休暇と有給休暇とはいえ、同僚に負担をかけることが心苦しい。
役場の一階に玲子の席はある。ここ数日は二階の資料室との行き来がつづいている。担当の仕事は福祉関係の事務処理である。日常の処理の合い間に、半年ほど前からペンディングにされている案件を整理して、上司への報告書を作成しておきたい。福祉は直接生活にかかわる事柄が多い。他の機関との調整上、どうしてもすぐに処理できない事情もあるのだが、関係各所にムリを言って前倒しできるものを洗い出す。
玲子は仕事上の区切りをつけることで、自分の心の整理もできるような気になっていた。

町役場とはいえ、建物は真新しい鉄筋五階建てだった。晃たちは一階の受付で、商工観光課長に取り次いでもらう。地元の開発についてはその部署が担当しているということだった。
晃は案内を待つ間に一階のフロアを見わたす。机の数からいうとスペースは広すぎる気がする。衝立はないが、向かい合った机の間にファイル棚があり、顔は見えづらい。言いようの無い感情が波立ち始めていた。
しかし、一階には玲子らしい姿はなかった。ちがう階にいるのかもしれない。
内線電話で確認を取っていた受付の女性が顔を上げ、「どうぞこちらへ」と晃たちを二階に誘導する。雑誌社の取材だからと気をつかってか、階段を使わずにわざわざエレベーターのボタンを押す。
しばらくして扉が開き、晃たちは乗り込む。

エレベーターの隣の階段から西条玲子が慌しい足取りで降りてくる。顔が隠れんばかりのファイルの束を両手で支えながら、最後の一段を注意深く降りると、また急ぎ足で扉の閉まるエレベータの前を通りすぎた。

二階の会議室に案内された晃たちは、さっそく取材の準備にとりかかる。晃はテープレコーダーの動きをチェックする。カメラマンはテーブルのまわりを回りながらカメラアングルを探す。旅行雑誌上では、担当課長の顔写真など載せることはない。 掲載する場合は、R誌のスクープ記事になるだろう。後ろめたさは仕事を受けた時点でわりきっているつもりだが、いざ現場に来ると胸が痛む。
そうこうしているうちに鍋島という担当課長が現れ、名刺交換のあと、さっそく取材が開始された。
あくまでも表向きは「今、ふるさと」という旅行雑誌の記事取材である。鍋島は終始にこやかに弁舌なめらかである。質問に「乱開発」という言葉をあえて交えても、町おこし、観光客誘致、町民の福祉という立場で肯定的な意見を述べる。たまたま、日本経済が逼迫したことによる遠因で開発は停滞しているものの、町民の意向を受けていずれは首尾良く完成されるものと期待している、といった内容だった。
晃は相手にしゃべらせるだけしゃべらせるよう気をつかいながらインタビューする。
頃合いをはかってカメラマンがOKのサインを出してきた。
取材はなごやかに終わった。ちょうど予定の一時間きっかりだった。
晃たちは礼を言い、部屋を出た。二階のフロアは会議室ばかりで、職員のいる気配はなかった。そのままエレベーターをつかわず階段から降りる。
一階の受付で取材終了のあいさつをし、晃はふたたびフロア全体を見わたすが、やはり玲子の姿はなかった。玲子の名が喉元まで出かかったが、席につこうとしていた女性を呼び戻すことはしなかった。

晃たちが受付に顔を出していたとき、二階のエレベーターの扉が開き、書類の山を積んだ台車を注意深く押しながら玲子は廊下に出た。よもや屋敷晃が階下で自分の姿を探していることなど思いもよらない。腕を振り深呼吸をひとつして、玲子はさわやかな汗をぬぐった。

晃は役場の外に出ると、ひとつフーッと長い息を吐き出した。
玲子に会うべきだったのかもしれない。しかし無理に会おうとする気持ちにはなれない。自分自身の奥深くにある暗闇に、ほんの少しだけ光明が点ったことで満足していた。すぐにとは行かないだろうが、過去と決別できる日が来ると思えてきた。晃はもう一度役場のビルを見上げてから、勢いよく足を踏み出した。
タクシーの車窓から眺める景色を背景に有香の顔が浮かんでいた。すべてを有香に話そうと晃は思う。
原稿の締め切りは明後日である。帰りの切符は船と電車になっていたが、晃は急いで帰りたいとひとりで空港に向かった。徹夜して今夜中に記事原稿を書き上げ、すぐにも有香と会いたい気持ちでいっぱいだった。

役場の五階建てのビル内で一斉に終業ベルが鳴った。
西条玲子はヘタッと椅子に座り込む。ここ数か月の間、残業は禁止されている。残った仕事をやりたくてもビル全体が閉められてしまう。仕方なく、玲子は同僚あてに残りの仕事のメモを書き始める。
そこへ内線電話が鳴り出した。外からの電話だという。
珍しいことにその電話は静江からだった。役場にかけてくることなどほとんどない。
ヒソヒソ声の静江の話に玲子は目をまるくした。小児科病院へ行った帰りのバスで彼を見かけたという。静江は先に下車したが海岸通り方面へ過ぎ去ったバスの中にいたのは、たしかに屋敷晃だというのだ。
高校でも同級になったことのある静江だから、見間違うはずはないと玲子も思う。しかし、なぜ? どうして? この町に帰っていたなんて。しかも、あの路線バスに晃は乗っていた。玲子は急に胸が熱くなる。泣き出したい衝動をかろうじてこらえた。一年以上も放っておいて、突然、今こんな時期に帰ってくるなんて。電話を切ったあと、机の書類を片づけながら、玲子は必死で冷静になろうとした。
もうダメなのだ。今となっては晃とは肩を並べて歩くことはできない。このまま、会わずに船に乗りたい。やっとあきらめ切れたのに、今度はこんな形でまた私を苦しめるの? 突然こみ上げてきた嗚咽をこらえきれずに、玲子は席を立った。


<手紙>

羽田に着くと、晃はすぐにマンションの有香の電話にかけてみた。しかし、応答はなかった。留守録にもならないことに多少の違和感を感じる。
晃は疲れもありタクシーを拾った。都会のネオンは、たった二日見ないだけで妙になつかしい。都会になれてしまった自分を感じる。
マンションの部屋はシンとしていた。きっと有香は実家にいるのだろう。仕事が終わりしだい実家に電話をかけようと思う。約束を破る以上に大切なことだから。
原稿は完徹して書き上げた。そのままEメールで田端に送る。
すぐに返事がきて、田端は「ご苦労さま」とねぎらいの言葉を書いてきた。取材のカセットテープはダビングして明日宅配で送ればいいと添えてあった。それで今回の使命は完了である。
晃はパソコンのスイッチを切ると、そのままベッドに倒れ込む。一昨日の夜もホテルでほとんど眠れなかったのだ。睡眠はもちろんのことだが、それ以上に心の癒えを求めていた。有香に会いたい。しかし目を閉じた瞬間に意識が朦朧としていく。
けたたましい電話のベルで晃は起こされた。
薄目で時計を見ると朝の六時だった。しまったと晃は思った。有香に連絡するつもりが、いつのまにか寝てしまったらしい。たしか原稿を書き上げたのが夕方の五時くらいだったから十二時間以上熟睡していたことになる。四回目のコールで受話器を上げた。
一拍おいて聞きなれた声が耳の奥に響く。有香だった。
「しばらくね、元気?」
「おう、電話しようと思ってたんだ」
「話があるの」
「いいさ、俺も話したいことがあるんだ。こっちへ来るかい?」
「ううん。今、電話で話したいの」
「そう。いいよ、じゃ君の話から聞こうか」
「あたしね……あたし、お見合いするの」
唐突に切り出してきた。
晃はどう反応すればいいのかわからない。
「西脇さんの息子さんと」
晃はしばらく記憶をたどり、はっと思い出した。動物園で聞いた名前だった。実家の近所の知り合いで、こんど世話になるかもしれないという日本アジア商事財務本部長の名である。あのときは娘と同級になったことがあると有香は言っていた。息子もいたのだ。つまり、父親の再就職の<条件>とは、そういうことだったのだ。
晃はあのときの会話の全容がつかめた。と同時に、自分を責めた。もう少し親身に聞いていれば、と。
有香の気持ちはどうなのだろう?
「有香はそれでいいのか?」
努めて冷静にたずねる。
しばらくの沈黙のあと、小さな声で返事がかえってきた。
「それとも助けに来てくれる?」
晃はすぐに応えられなかった。何が良くて何が悪いのか、どうしたらいいのか即断できない。この一、二週間でこれまでの平静さがウソのように崩れていた。混乱が混乱を呼び、自分の心の所在さえ見つからない思いだった。ようやくひとつの道が見えてきたはずなのに。
「いいの、冗談よ」
「ちょっと待ってくれ、時間が欲しい」
ほんとうは、「すべてを話すから聞いて欲しい」と言いたかった。しかし、有香だけの問題ではなく、家族の問題も含んだ話であることに戸惑いを感じている。とにかく、ゆっくりと話をしたいと思う。
「あたし……。ごめんなさい、あきらに悪いことしちゃった」
声がかすれている。泣き明かしたのだろうか。
「いいんだ。俺の勘違いだから」
「ちがうの、立木くんのことじゃないの」
「ああ、八津たちのプレゼントのことか? あのオルゴールは捨てたよ」
晃はサッシを薄く開く。光と影の直線模様は、いつもの監獄とは違うように見える。
「うーんん。そのこともそうだけど、それだけじゃないの」
「え?」
「ね、ひとつだけ聞いていい?」
「いいよ、なんでも」
晃は玲子の名が出る予感がした。しかし、もう何も隠すつもりはない。
「あきらは、彼女から逃げてきたの?」
名前こそ出ないが、西条玲子のことを指していることはまちがいない。ただし、<逃げてきた>という表現が気にかかる。
「どうして、<逃げてきた>なんて言い方をするんだい?」
「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」
「どうしたんだよ、いったい」
「あたしね、手紙を読んでしまったの」
やはり、と晃はうなずいた。ひょっとしたら、そうではないかと思っていたのだ。晃はサイコロを毛布の上に転がす。ゾロ目は出ない。しかし、いつもの祈りはもうしない。
晃は今すべてを話そうと決心した。玲子には手紙を書こう。過去との訣別のために、そして今、自分は有香という女性を愛し始めていることを。罪の意識を有香とともに忘れずに生きていくということを。有香の家族の問題に関しては、それはそれとして話し合えばいい。
「あのファイルは、ぼくの過去なんだ。有香と出会う前の記念なんだ。それだけさ」
晃はすなおな気持ちを告げた。
「何? ファイルって?」
「とぼけんなよ、いまさら」
「え? ファイルにも手紙があるの?」
晃の視線はひとりでに空をさまよう。有香の言う手紙はファイルのものではないのか。(じゃ、いったい?)
「有香。それじゃ、その手紙って?」
「ごめんなさい」
こときれそうに声が細くなる。
「いつ届いた手紙なんだ?」
そう言ってから、愕然とした。
有香と同棲を始めてからまだ一年足らずだった。その前の手紙なら有香の手に入るはずがない。ということは、最後にもらったと思っていた手紙のあとに、また手紙が届いていたのか。
目の前がまっ白になる。
「有香、こたえてくれ。いつの消印なんだ」
「……」
「有香!」
思わず怒気を含んだ語調になる。
「いま、持ってないの」
「どこにある?」
「そっちの部屋」
「の、どこ?」
「……」
受話器から興奮した吐息が聞こえている。晃はじっと待つ。
「キッチンの引き出し、の下に貼って…」
有香が言い終わる前に晃はキッチンに走った。
三段の引き出しを上から順に引き抜く。上段にはない、中段に…もない、下段……。
あった。封書が二通。包んでいたビニール袋ごと持って受話器に戻る。
消印は? ひとつが去年の六月三日、もうひとつが去年の十一月二十二日。どちらも有香と同棲してからのものだ。
受話器の向こうは何も音がしない。
晃は開いている封書の中身を引き出して読み始める。消印の古いほうの手紙から……。

「拝啓 屋敷晃様
お元気でしょうか。返信が遅れてごめんなさい。
いろいろと考えてみました。
あなたは、あなたなりにあの時のことを忘れられないことはわかります。
でも、もう自分を責めないでください。
私も正直になろうと決心しました。
母親にあの時の私の気持ちをすべて話しました。
たしかに、八津くんとあなたと、ふたりがいたことは今でも悔しく思います。
でも、私はあなたのことが好きでした。
だから、そうしたのです。
自分の中で、あなたが望むならという気持ちでいたことはたしかです。
でも、あの時、矢部さんに見つけられて良かったと思います。
あなたと八津くんには辛いことが待ち受けていましたが。

もう、自分を責めないでください。
後悔で私に手紙をくださるなら、やめてください。
それは私にとっても苦しいことになります。
あなたの気持ちを教えてください。
私のことを好きでないのなら、もう手紙は送らないでください。
かしこ
西条玲子 」

相変わらず電話の向こうは静かだった。
「有香、聞いてるか?」
「ええ。手紙を読んでるの?」
「ああ」
「ごめんなさい。あたし、怖くて」
「待ってくれ、全部読ませてくれ」
「ね、聞いて」
「なに?」
わかっていても、ぶっきらぼうにならざるを得ない。
「あたしを許してくれる?」
「それは、今はわからない」
「ね、お願い。も、もう読まないで」
泣き崩れる声と受話器が落ちる音がした。
晃はもう一通の手紙を広げた。

「拝啓 屋敷晃様
お元気ですか。
はじめに、手紙を出してごめんなさい。
あれから三月ほど経って、縁談がもちあがりました。
先週の日曜に正式に決まり、式の日取りも先方からの提案で決まりました。
来年の四月に結婚します。
正直に言うとまだ迷っています。
でも、あなたから手紙をいただけないということは、あきらめるしかないと
思っています。
最後に、あなたへもう一度言います。
けっして自分を責めないでください。
私はもう、あの時のことは忘れます。
もう二度とお目にかかることはないと思います。
くれぐれも、これからの人生を大事になさってください。
早く、好きな方と幸せになれるよう、心からお祈りします。
では、さようなら。
かしこ
西条玲子 」

目の前がかすれて最後の部分が読めない。涙が手紙の文字をにじませた。
取材のときに会っていれば、誤解は解けていたかもしれない。しかし、もう遅い。玲子はすでに結婚してしまったのだ。
悔しさと情けなさと寂しさが一体となって、晃の全身は嗚咽に震えた。こんなことがあっていいのか。有香を愛する心の準備ができたと思ったのに。何もかも、自分の過ちから起きた結果なのだ。晃はこのまま、誰も知らない土地に行ってしまいたかった。
力無く受話器を耳にあてた。
「…きら、あきら、聞こえる? あ…」
しばらく呼んでいたのだろう。有香はかすれた声を懸命に引き絞るようにあげていた。
「ああ、聞こえてる」
嗚咽をこらえながらこたえた。
「よかったー。変なこと考えないよね」
図星だった。
「ほんとうに、ごめんなさい」
「もう、いいんだ。もう」
有香にはもうしわけないと思うが、生気の失われた声しか出ない。
「あたし、もうあきらに迷惑かけないから。困らせないから」
「いいんだよ、もう、終わったことなんだ」
「ちがうの、まだ終わったわけじゃ……ないの」
「いいよ」
「あたし、このままじゃ。自分を自分で憎むことになるわ。ね、聞いてる?」
「ああ」
「昨日ね、電話したの、彼女の仕事先に」
「仕事先って、役場のことか?」
「そう。あたし彼女にたしかめたくて……。そしたら休暇をとってるって。聞いたら出発日がきょうだと教えてくれて。ごめんなさい、すぐに電話できなかった」
「出発日って、何のこと?」
「とにかくね、夕方の六時の船に乗るって言ってたわ。海外に行く船の中で式を挙げるらしいの。ね、聞いてる? 間に合うかもしれないのよ」
先月に式を挙げると手紙には書いてあった。もし、有香の言うとおりなら、何かの事情で式が遅れたのかもしれない。まだ間に合う? 玲子を止められる?
状況は根底から覆されてしまった。一方的に相手から途絶えてしまったはずの便りが、実際は晃の元へ届いていた。しかもその内容は、玲子の愛の告白だった。それを知らずに有香に気持ちを傾けようとしてきた。
晃は故郷の重みを感じざるをえなかった。東京という遠い町に来ることで、家族や人間関係の重みから逃れようとしていたのかもしれない。同棲は、ある意味そういうしがらみに対する抵抗だったのかもしれない。有香も、ひょっとしたら同じように感じているのではないか。
「有香、いいのか?」
多くは語れなかった。この一言に対する有香の反応を、自分の答えにしようと晃は思う。
距離の離れたふたつの受話器の間で、長い沈黙が流れた。小鳥のさえずりが窓をよこぎる。それを合図にしたように、沈黙が破られた。
「もう、いいの。あきらのこと愛してる。でも、もういいの。お願い、彼女の元へ行って」
有香の声は、か細いがはっきりしていた。
晃はもう一度念を押そうとした。有香との生活の断片を思い出す。楽しかった。それはうそじゃない。しかし、と晃は首を振った。
「有香、ごめん。俺帰るよ」
思わず<帰る>という言葉が口から飛び出した。
「あきら。大好きよ」
「有香、俺もおまえが大好きだ」
言い終わる前に電話は切れた。
受話器を置いたとたん、有香と暮らした日々がめまぐるしく脳裏をかけめぐる。有香の笑顔、泣き顔、怒った顔、それにすねた顔、甘えた顔、そして愛を交わした顔……。晃は思いきり泣きたかった。自分をめちゃめちゃに壊したかった。しかし、それは有香の気持ちをかえって踏みにじることになるのだろう。
「ありがとう、有香」
相手のいない受話器に向かって晃はつぶやいた。
急がなければならない。飛行機は今からでは予約はムリだ。晃は窓のサッシを全開にした。まばゆい光が部屋中を満たす。サイコロを二個つかみあげると、ダッシュボックスに放り込んだ。


<海岸通り>

インターネットで陸と海の路線を確認し、時刻表をプリントアウトしてマンションを出た。
東京駅で発射間際の新幹線「のぞみ」にぎりぎり飛び乗れた。
広島で降り、そこからタクシーで港に行き松山行きの連絡船に乗るつもりだった。玲子が家を出る時間に間に合うかどうかはわからない。
車内アナウンスで停車駅の到着時間が告げられる。広島着は十三時五十一分だ。そこから先のタクシーは時間が読めない。
時間の流れが異常に速く感じられる。
車窓から遠い故郷の方角を眺める。その空の雲はなかなか近づかない。もどかしさが胸をしめつける。
「そうか」と思わず声を挙げてしまった。隣に座っていた客が訝しげに一瞥を晃に突き刺す。
電話をすればいいのだ。動転して気がつかなかった自分の頭を何度もこづいた。
車両に装置されている公衆電話をさがす。近くの電話は長話の最中だった。車両を変えて、空いていた電話に飛びついた。
名刺入れからこの間もらった商工観光課の鍋島課長の名刺を取り出す。電話に出た女性の声に聞き覚えがある。あのときの受付の女性だ。
「あの、西条さんをお願いします」
「西条はあいにく昨日から休みを取らせていただいていますが」
そう聞いて、晃は自分の愚かさ加減に苦笑した。それなら、と、なりふりかまわず聞いてみた。
「もしもし、すみませんが、西条玲子さんの自宅の電話番号を教えてください」
相手は怪訝そうな声でこたえる。
「あのう、どちらさまですか?」
あわてていて自分の名前を言い忘れていた。失礼をわびて屋敷ですと名を告げた。
「あの、本人は休暇をとっていまして、どういうご用件でしょうか?」
「いえ、その、電話番号だけ教えていただけないかと」
「申しわけありませんが、個人の情報はお教えできないきまりで」
この相手では埒があかないと思い、名刺に目を落とした。
「えーと、すみませんが、観光課長の鍋島さんに代わってもらえますか?」
「商工観光課の鍋島ですね」
「あ、はい」
「ちょっとお待ちください」
ぶっきらぼうな声を残して、保留音に変わる。
少し間をおいて同じ声が聞こえてきた。
「申しわけありません。あいにく鍋島は出張に出ております」
「お願いです、緊急なんです。ぼくは、この間取材でお邪魔したものなんですが、町の人間なんです。事情があって、西条さんの電話番号を教えてくれませんか?」
晃は哀願口調になっている。
「ああ、どうもその節はご苦労さまでした。取材の件でしたら上司に相談しませんと。ご用件をお聞かせいただけませんか?」
相手も困ったようすであることは気配でわかる。晃はあきらめて受話器を置いた。
いちど冷静になろうと席に戻る。車内販売でジュースを買って飲んだ。

ほかに手はないか。何かあるはずだ。そうだ、と指を鳴らす。電話に戻り、今度は電話番号案内にかける。
「もしもし、愛媛県の……」
と、そこまで言って電話を切った。西条という姓はわかるが、玲子の父親の名前が思い出せない。しばらく思いめぐらせてみるが、わからない。後ろでだれかが咳払いした。いつのまにか順番待ちでふたり並んでいた。ひとまず電話を譲る。
壁に頭を打ちつける。(思い出せ、思い出すんだ)。
電話が空き、こんどは実家にかけてみる。玲子の家の電話番号を調べられるはずだ。
しばらくコールをしているが、だれも出ない。何度もかけているうちに、両親とも昼間は仕事に出ていることに気づく。
もう一度番号案内にかける。直接西条家の番号を調べてみようと思う。うろ覚えだったが玲子の住所はおぼえている気がする。
案内に姓と住所で調べられるかと聞くと、あっさり受けてくれた。
晃は玲子の実家に電話をするのは、これが初めてである。本人が出てくれることを祈る。もし親が出れば、取り次いでくれるはずはないと思う。きょうは娘の晴れの日なのだ。娘にむごい仕打ちをした男からの電話など取りあうわけはない。
番号を押す前に、晃はあの時の情景を思い浮かべていた。

高校の帰り、いつものように八津と玲子と晃の三人は駅で待ち合わせをした。バスに乗り、海岸通りのバス停で降りる。いつもはそこでしばらく話をして別れる。が、その日は玲子を家まで送ることにした。ところが、八津が近くの神社に寄っていこうと言い出した。
小高い山の上に祠が建っていた。夜の闇が間近に迫っている。頂上の境内に着くと、人気はなかった。秋とはいえ、夏の名残りでまだ蒸し暑い。
玲子は長い上りの石段で汗をかいたらしい、上着を脱ぎシャツのボタンをひとつ外した。薄暗がりの中で玲子の胸がやけに気になった。八津が肘で晃をつつく。ひそひそと晃の耳に企みを吹き込んだ。晃はこたえなかった。
突然、八津が玲子の腕をとった。そして小さく叫んだ。
「晃、何してる。押さえろ」
晃は玲子を見た。
玲子は必死に抵抗していたが、声は出さなかった。八津が晃を催促する。
玲子は声を出さないままもがいている。玲子が何を思っているのかわからなかった。心臓が破裂しそうなほど体内で踊っている。晃の中で好奇な欲望がむっくりと起き上がった。
晃は玲子の前に立つと、白いブラウスの胸を思いきり開く。瞬間、玲子と目が合った。玲子はまだ抵抗しながらも、その目は甘美な潤いをたたえているように晃には見えた。
晃はがむしゃらにその白い胸に顔を埋めた。
小さく玲子の声が聞こえた。
「やめて、お願い」
声は震えていた。
しかし、八津はエスカレートしていた。スカートの中に手を入れ、下着を引きずり落とす。晃は震えながらも制止することはできなかった。
八津が玲子の中に入る姿勢をとる。晃は玲子の目が閉じられていくのを、ただ見ているしかなかった。
そのとき、怒鳴り声が背後から迫った。
それは火の用心の見回りをしていた町の消防団員たちだった。

この件は表沙汰にはならなかった。玲子の父親が公表を許さなかったのである。
それでも町の一部の人間には知られてしまった。晃と八津は周囲の冷ややかな視線を浴びることになった。晃は純粋に玲子を好きだった。しかし、だれにもそのことは言わなかった。もちろん、そうだからといって許される行為ではない。
晃は東京の名もない大学へ進学した。実家もそれを望んだ。
八津は高校を卒業すると、すぐに海をわたった。
それ以来、晃は自らの<監獄生活>を送っていたのだ。

晃は玲子の家の番号を押す。電車は新大阪駅をすでに発車していた。
呼び出しのコールがつづく。三回、四回……十回、十一回……。だれも出ない。
何度か電話をしてみたが、同じだった。親戚へのあいさつ回りか、相手の家に行っているのかもしれない。
そうこうしているうちに広島駅が近づいていた。
広島港までタクシーで三十分くらいか。うまく高速船につながれば、松山観光港に午後四時ごろ着けるかもしれない。そこからタクシーで行って、ぎりぎりのタイミングだ。
午後六時の船に乗るはずだと有香は言っていた。しかし、どの船に乗るかによって家を出る時間が変わる。
(間にあってくれ!)
心の中で叫ぶ。

広島駅には定刻に着いた。
晃は走った。南口を出てタクシーに飛び乗る。しばらくして、はたと気づいた。財布をのぞくと残り五千円しかない。これでは高速船には乗れない。運転手に銀行の前で止めて待ってもらう。ギャラが振り込まれているはずだった。
しかし、残高には千円も残っていなかった。
「森山のばかやろう、また遅れやがって」
と、声を出して毒づいた。警備員が緊張した目で晃を見る。そのそばを歩いて抜け外に走り出る。
ふたたびタクシーに乗り込む。いい手が思い浮かばない。
タクシーの運転手がおもむろに聞いた。
「どうしたの?お客さん。何か急いでるみたいだけど」
「あ、その、船に乗るお金が足りなくなりそうで」
晃はこの運転手に頼んでみようかと思う。
「悪いけど、金は貸せないよ」
様子で察したのだろう、冷たく機先を制されてしまった。
晃は助手席に競馬新聞があるのを見て、思い出した。
そういえば、この間の重賞馬券は当たっていたのだ。たしか倍率は六.八倍だったと記憶している。払い戻しをする機会がなく、当たり馬券は財布のポケットにしまっていたのだ。
運転手に話しかけた。
「運転手さん。競馬やるんですか?」
「ああ、めったに賭けないけどね」
「この間、えーと二週前だったかな、日曜の重賞レース。たしか十レースのはずだけど、俺、当たり馬券持ってるんですよ。二万円ちょっとになるんだけど、一万五千円でいいですから買いませんか?」
一気にまくしたてた。
「えー? ほんとかい? いやあ、やめとくよ」
運転手は本気にしていない素振りだ。
晃はしつこく頼んだ。
運転手はしかたないなあ、というふうに、無線のマイクを取り上げた。
「えー、103号車」
どうぞ、という無線の声が入る。
「悪いんだけどね、二週前の競馬の結果わかる人おる?」
無線でやりとりをする。晃の状況を話したりしている。他のタクシーの運転手からの情報で結果がどうにかわかった。晃は冷や汗をかいた。間違いはないが、一応名刺をわたして保険をつけておいた。
広島港ではちょうど高速船の乗船が始まっていた。弁当を買いこみ間一髪で乗り込む。
乗船中も電話をかけてみたが、やはりだれも出なかった。あとは一刻も早く着くしかない。
船の上でじたばたしてもしようがないと、晃は港で買った弁当を口にほうり込んだ。しかし、味の感覚がない。
松山観光港へは定刻の午後四時を三分過ぎて接岸した。待合所を出るとちょうど待っていたタクシーを拾い、行く先を告げる。
タクシーの中で景色が浮かぶ。昔のセピア色の景色から始まる。
砂混じりの海風。
海岸通り。
人影のないバス停。
そして、バラックの待合室。
傍らで頑固に居座る道祖神。
潮騒のざわめき。
潮の強い匂い。
隣に座る女。
そう、西条玲子。
次第にイメージの中の景色は現実の色を帯びていく。

親戚へのあいさつを終えて戻ってきた玲子は、すぐさま出かけることにした。玲子は母親にしばしの別れを告げて家をあとにした。バスの予定時刻にはまだ間がある。幼いころから親しんだ裏山の神社に寄っていくつもりだった。
頂上からの見晴らしはすばらしい。海岸通りを眼下に、はるか海のかなたの島々を望む。
あと数時間後には、この海の上を伝い日本を離れる。そして、三日後には西条の名からも離れる。そして、それは屋敷晃との永遠の別れでもある。晃と最後に会ったこの神社に、どうしても足を運んでおきたかった。晃がこの町に来ていたという。しかし、それ以来晃の消息はつかめない。自分には関係のない用事で訪れただけなのか?
祠に向かい手を合わせる。自分の幸せと晃の幸せを玲子は心の底から祈った。

西条家の前でタクシーが急ブレーキを踏む。
記憶に残る家屋敷。庭先には大きくうねる松が太い日陰をつくっている。玲子がかわいがっていた柴犬の犬小屋も見える。
晃はインターホンを押して、馴染みを覚える大きな板の門を開いた。
以前と変わらぬ古い屋敷全体が、静まりかえっている。
胸が押さえ切れないほど高鳴る。
声を出して玄関のガラス戸を叩く。応答がない。だれもいないのか?
と、家の中から物音がし、人影が玄関口に現れた。緊張で首が震える。
戸が少し開かれ、顔を出したのは玲子ではなく母親だった。
(遅かったか)
まずは土下座をして事件のお詫びをすべきだが、はやる気持ちが先に晃の口をついて出た。
「ご無沙汰しております。すみません、玲子さんに会わせてください」
母親は驚きの眼で晃を見つめていたが、次の瞬間その場に崩れ落ちた。声を出そうにも出ない様子で手を差し上げた。その指先は海岸通りを指していた。
その指先の意味も聞かずに晃は駆け出していた。玲子がバスに乗ってしまったら終わりだ。
陽は山の端にかかり、まもなく姿を隠そうとしている。
心臓が飛び出そうなほど走る。
上着を脱ぎ捨て懸命に走る。
(間に合うはずだ)心の中で叫ぶ。

<海岸通り>バス停の内は淡い陽ざしを受けてひっそりとしていた。
待合室に座る玲子は、静かに海辺を見つめていた。
最後の最後まで、気持ちを引きずる自分がかわいくもあり、せつなくもあった。
しかし、こういう運命にあったのだとあきらめよう。
きっと、あの役場に現れた女性は晃の恋人なのだろうと、今になって思う。
きれいな人だった。
彼女となら、晃も幸せをつかむに違いないと思えた。
屋敷晃。
私の愛した人。
バスが来る。定刻から少し遅れている。
玲子は立ち上がり手を上げる。
大きなブレーキ音とともに、バスは玲子の目の前でぎこちなく止まった。
ドアが開く。
一息深呼吸をして、玲子はステップに足をかける……。
と、どこからかなつかしい呼び声が聞こえたような気がした。
潮騒のいたずらか、気のせい……。
最後のステップを上がろうとしたとき、こんどははっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
玲子は振り返る。

砂まじりの景色の中。
転びそうになりながら駆け寄ってくるのは、なつかしい、愛しいシルエットだった。
(Only You)

●あとがき
この物語は1984年に作曲した2つの曲のイメージを文章にしたものです。幼なじみが成長し別れ別れに暮らし、いつの間にか時が過ぎてしまい、女性が他の男と結婚すると手紙に書いて送る。その時の女性と男性の気持ちを、それぞれ歌詞にしたものが原型です。

テーマ曲01

<歌詞>

〜玲子から晃へ♪

すきま風が吹き抜ける 待合室
定刻遅れのバスが もうそこまで

LOVE ONLY YOU
砂まじりの景色
行かないで 声が聞こえそう

手紙はとっくに着いてるころよ 彼に
知らんふりして出て行ったのは 誰よ 過去は・・・

風の便りに
好きな人といるの

いつの間にか時は過ぎ 変わってゆく
あの頃はあなたなしで いられなくて

LOVE ONLY YOU
写真も色あせたの
少しだけ 待ちつかれてる

夢は夢でいいと思いはじめて きたの
私が悪いわけではないねと 書いた あとは・・・

風の便りに
好きな人といるの

LOVE ONLY YOU
Waiting for you all the time before
いつの日か 迎えにくると

バスが止まって足をかけたら 声が
なつかしい呼び声が きっと あなた 振り返ると そこに

ONLY YOU
ONLY YOU
ONLY YOU・・・・・

テーマ曲02

〜晃から玲子へ♪

朝 手紙
君 嫁くと(ゆくと)
時 列車
空 白く

駅に着きかけ降りて タクシーにとび乗り
流れ去る景色には 目もくれず走れ ただ走れ

雲がなかなか 近づかないよ
こんなもどかしい 日は初めてさ
時計の針が こんなに速く
まわるものだと 気づいた

屋根 赤い
松 曲がり
犬 小屋
ドア たたく

おばさんのなつかしい 笑い顔くずれ出し
おそ過ぎたと海をさす 指先がかすかに震えている

バスはいつもの 海岸どおり
まに合うはずさ これだけの愛
服をぬぎすて 肩をいからせ
力のかぎり 駆け出す

潮の香りや 波のざわめき
車の音が すぐ目の前だ
なつかしいあの 待合室に
たたずむ君が 振り向く


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